『生きる』をかんがえる ~ 親孝行篇 ~ - 白色の自己主張
~ 何色にも染まるたおやかさ 染まらない凛凛しさ ~

『生きる』をかんがえる ~ 親孝行篇 ~

Photo:Hug By:Tania_Cataldo
Photo:Hug By Tania_Cataldo



白色の自己主張 ~ 何色にも染まるたおやかさ 染まらない凛凛しさ ~



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2014年12月
ケータイに見知らぬ番号から電話がかかってきた。



番号をみだりに教えたりはしないから
普段ならまず出ないのだけれど

直感が

『出たほうがいいよ』

そう教えてくれている気がして電話に出た。



電話口からは懐かしい声がした。
ずっと音信不通になっていた友人からだった。



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20代 本屋さんで働いていた頃

絵本が大好きだったぼくは
いっとき絵本屋さんを開くことを夢見て

(今はこんな働き方はオススメしないというかしてはいけません)
(好運に幸運が重なってたまたま健康を害さずに済んだだけなので)

早朝は新聞配達
昼間は本屋さんで正社員としてフルタイム勤務

夜は会員制の高級クラブでバーテンダーとしてそれぞれ働いて
潤沢な起業資金を貯めていた。



ぼくの流転の人生で
唯一勤め人が続けられた時期だ。



高級クラブには
同じように夢を追う仲間がいた。

それが、のちに親友となるゴンちゃんだった。

お互い5年ほど寝食を忘れて働き
ゴンちゃんの方が先に資金を貯め

上京することになった。



会社員を辞め起業することに

ご両親
特にお父様は大反対だった。

社名を聞けば『あぁ、あそこね!』
誰もが知っている会社で働き

まず潰れることはないから将来は安泰。

それなのに自分がやりたいことを優先して
うまくいくかどうかも判らない起業に

これからを懸けようというからだ。



それでもゴンちゃんの決意は固く
決して揺るがなかった。



お父様からは

『親子の縁を切る』

とまで言われ

上京する日
桜が咲き誇るなか
新幹線のホームに見送りに来たのは

平日の昼間だったとはいえぼくだけだった。



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その後

起業しない方が物事がうまく運ぶと悟り
方向転換したぼくとは対照的に

アパレルで起業したゴンちゃんは
持ち前のバイタリティーもあり

飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長。



上京から数年は定期的に連絡を取れていたが

ある日を境に
ぷっつりと

連絡が途絶えた。



手紙を送っても音沙汰なし。
ケータイも解約されていた。



『余計なお世話かな』

と思いながらも上京して
教えてもらった住所を訪ねると

もう引き払った後だった。



手掛かりは途絶えた。



何処かできっと生きているはず。
なにがあっても生き抜いているはず。
ヘタレなぼくとは違う。

そう信じながらも消息は一切掴めないまま
手のひらから砂がこぼれていくように

さらさらと時間が流れていった。



                    *



電話がかかってきたのは
あれから13年後だった。



開口一番

『よかったぁ、生きてて』

つぶやくと

『親父にもおんなじこと言われたよ』

こんなことを話してくれた。



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起業して数年はうまくいっていたものの

その後は人の良さが災いし
方方で騙されてしまったり

身体を過信した激務がたたって
心身のバランスを崩してしまい

やがて事業は尻すぼまりになり
廃業することになってしまった。



すってんてんになった自分に
衣食住で頼れるところといえば実家しかない。

公衆電話から
小銭を握りしめてかけようとするがかけられない。

受話器を握りしめてかけようとするが
どうしてもかけられない。



啖呵を切って上京した手前
『どの面下げて』の心境だったからだ。



電話ボックスを入ったり出たり
受話器を手に取っては戻し

小銭を入れては受話器を置いて
返却口から出てくる小銭を再び握りしめる。

汗で濡れた小銭は
水たまりかなにかに落としたみたいだった。



そんなことを何度か繰り返した後

震えながら
勇気を振り絞って
公衆電話から恐る恐る実家に電話すると

『プルルルル』

呼び出し音が鳴る。



よかった。
つながる。



と思った瞬間
心の準備もままならないなか

『はい、もしもし』

よりによって
一番出てほしくないお父様が電話に出た。



しどろもどろになりながら
遠距離の通話で小銭を心配しながら

今までのことをとにかく
洗いざらい話していった。



でも、受話器の向こうからはまるで反応がない。

『うん』とか
『あぁ』とか

せめてそれぐらいは言ってもいいだろうにと思う。



電話が壊れているのかと確かめてみるが
故障はしていないようだ。



聴いてくれているのかどうかも判らないまま
汗だくになってひとしきり話し終えると

お父様からひとことだけあって
ぶっきらぼうにガチャンと電話が切れた。



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生きてるだけで親孝行だ。
いつでも帰ってきなさい。




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ゴンちゃんからこの話を聴いたとき、羨ましく思った。



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老舗和菓子屋 虎屋の菓子資料室『虎屋文庫』で連載されている

歴史上の人物と和菓子
https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/

甘党なのは今も昔も同じなんだなぁなんて思いながら
ぼくも甘党で毎回楽しみに読んでいたところこの度大幅に加筆修正され

『和菓子を愛した人たち』
https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/activity/media17-06-02/

として刊行。



その表紙に描かれている川崎巨泉(かわさき きょせん)さんの画
饅頭喰人形の謂れにこうあった。




これは「お父さんとお母さんのどちらが好きか」と聞かれた子どもが、持っていた饅頭を割って、「どちらがおいしいか?」と聞き返した(両親とも同じように大切である)、という教訓話を元にした人形です。

饅頭喰人形より
https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/095/




姉とぼく(=弟)。
同じ親から産まれた子どもはどうなんだろう。
母亡き今、父はどう答えるんだろう。



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生きてるだけで OK の子どもとして産まれたかった。



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鬱で苦しんでいたとき手にしたデビッド・D・バーンズさんのご著書

いやな気分よ、さようなら
自分で学ぶ「抑うつ」克服法
http://www.seiwa-pb.co.jp/search/bo05/bn798.html

分厚い本で
気がつけば睡魔に襲われ
何度枕にして挫折したことやらの本ではあったけれど

それでも毎日ちょっとずつ読み進め
ちょっとずつ実生活に活かしていくを繰り返して

ご著書のシリーズに助けられ
ぼくは鬱の長い長いトンネルを抜けた。



同じように鬱に悩む友人に出逢って
万人向けではないと断ったうえで本を勧め
彼は今あの頃のぼくと同じように読み進めている。



ぼくは両親から

365日虐待
365日全否定
幼少期を皆勤賞で過ごしてきたから
http://ippunkan.blog.fc2.com/blog-entry-360.html

批判されることに
否定されることに
過度に感情的に反応してしまうところをどうにかしたくて

【第二部】応用
言葉の柔道:批判を言い返すことを学ぶ

『言葉の柔道』この表現も気に入っていて随分救われたが
(言い返すというよりはぼくの中では『受け身』に近い)

先日うちを訪ねて来てくれた友人は

【第四部】予防と人間的成長
いつも認められたい(承認中毒)

を読み進めていて、ふとこんなことをぼくに問いかけた。



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友人:

ヒロもさ、承認中毒のところない?育ちのことを悪く言ってるんじゃなくて、だから怒んないで聞いてほしいんだけど。ヒロのやってるライフワーク見てて思ったんだけど、逢う度に増えてる気がして。あれって、必要とされたいとか認められたいとかっていうのがあってどんどん広げてきてるの?

ヒロ:

それはあるよ。もともとは両親に理想の息子像ってのがあって、ぼくを見る目っていうのはいつも理想の息子像かどうかってただそれだけで、それが嫌でたまらなくて。ぼくは、っていうか『人間は』だけど、平面じゃなくて、多面的で、奥行きも深みもあるのが人間だと思ってるからね、誰しも。

だから、理想の息子かどうかだなんてひとつの面からじゃぼくのことなんてなにひとつ判んないだろう?って反発もあって、きっと一生かかっても判んないぐらい奥深いもんだと思ってるから。じゃあどんなじぶんにぼくは出逢えるんだろうって、好きなことよりもさらにパワーアップした気がついたらやってるような夢中になれるものをどんどん思いつくままにやってったら、今みたいに18(近々19)ものライフワーク手がけるまでになってて。

でも根っこには、やっぱり幼少期に両親に否定されつづけて育って、物心がまだつくかつかないうちにアニメのタイトルみたいだけど実力至上主義を求められてね、子どもなのに。とにかく目に見える結果を出さないと生きていけなかったからさ、出来の良い姉と常に比較されて、露骨な姉弟間差別されてたし。結果を出さないと理想の息子からは外れてしまうわけで、そうなるとぼくの存在意義はなくなるわけでね。

実際『おまえは居るだけでカネがかかる。会社で言うならコストなんだよ』って言われたことがあって。だから見放されたくないからって、幼い子どもだから大した成果なんて出せるわけがないのに、必死にすがりついてた。必要とされたいって、認められたいって、良い子でいたいって。それがずっと根っこにあるんだろうね、おとなになった今も。まぁ、それに気がついてるってことが大事でさ、あること自体が悪いわけじゃなくて、要は塩梅。自覚してれば『あっ、今、行き過ぎてるぞ』って判るからブレーキ掛けられて、共依存とか、相手にじぶんを犠牲にしてまで尽くしたりとかはなくなるからね。

『ごめん、愛してる』ってドラマでね、主人公の律(=岡崎律 おかざき りつ http://www.tbs.co.jp/gomen_aishiteru/chart/)は、ピアニストの母親が人気絶頂期の頃に著名な指揮者と不倫関係になって宿した子どもなんだけど、どちらも自分の立場やキャリアを守りたい一心で、律は産み落とされてすぐに付き人の手によって秘密裏に養護施設に捨てられた。

その後律は里親に引き取られて(=岡崎姓はこの里親から)父親の仕事で韓国へと渡るものの、10歳で小学校を中退して家を飛び出す。でも日本人の、それも子どもが独りで生きていくなんて想像を絶するものだったと思う。もちろん似た境遇でも立派に生きてる人もいるだろうけど、律は生きてくためにレストランの厨房、建設現場の作業員をしたりして地を這うような生活を経て裏社会、韓国マフィアの運転手、そしてボディガードになってた。『律』ではなく、『リュウ』と名乗って。

でもある日、律のことをアニキと慕ってくれてた跡取り息子の誕生日パーティーの席で、敵対するマフィアから銃撃された彼を守ろうと盾になって何発も撃たれた。幸い命に別状はなくて助かったけど、撃たれたときに手術では取り除けないところ、脳の中枢に関わる部分にね銃弾が残ってしまって、それがじわじわと中枢神経を侵していって、じきに身体が動かなくなって、やがて死へと至るって医者から告げられる。

マフィアからは最初こそ跡取り息子だけがお見舞いに来てくれたけど、その後は病状を知ってすぐに用済みと判断されて、多額の手切れ金を渡されてそれっきり。律は残された人生をどう生きるか考えて、日本に帰り母親を探そうと決める。

手がかりは育った養護施設と、捨てられたときに一緒に置かれていたお守り袋に入った『律』と書かれた紙片、そして母親が身に着けていたであろう宝石の付いた指輪。探し始める律に、ピアニストの母と指揮者が不倫関係の末子どもを捨てたことを掴んで記事にしようとしてるフリージャーナリストが近づいてきた。

居場所を教えられた律は早速会いに出かけたものの、家は見上げるほどの大豪邸。お金持ちであること、何不自由なく暮らしてることはすぐに想像できた。母親だから自分のことに気づいてくれると思って本名の『律』ではなく『リュウ』って名乗ったけど、母は自分のことなんて腹立たしいほどきれいに忘れてて、律を見てもなにも感じない。もうひとりの、自分の知らない息子サトルを溺愛してる姿を目にして激しい憎しみを憶える。ジャーナリストにそそのかされて秘密を暴露して、復讐してやろうとまで。

でも母が不倫関係の清算で自殺を図って、そのときの後遺症でピアニストとしては致命的な右手に障害が残ってしまって、人気実力共に絶頂期だったのに事実上の引退に追い込まれたことを知ったり、捨てられた自分と違って溺愛されて幸せに映ったサトルも、夢絶たれた母の夢の代わりにされて、すべてはママの言う通り。操り人形のようになってる。

男の子がするような遊びは指を怪我するからってすべて禁止されて、おまけに心臓の持病があるから出掛けることもままならない。そんなんでいつも家に居るから、母親の愛情もエネルギーもすべてがサトルにのしかかって四六時中ピアノに打ち込まされて、友達はいない。部屋で他にすることといえば、ゲームだけ。

母親にとってはサトルがすべて、サトルが人生の中心。息苦しいだろうなって思った。でもサトルは母親に見捨てられたくないから、必死で良い子でいようとしてる。

それぞれの事情を知って律は、出逢ったときに抱いた印象も、感情も、変わっていくのね。

捨て子として一切関わるつもりがないなら『律』って名付ける必要もないし、紙片もいらない。指輪も後々接点が判ってしまいかねないから持たせてしまうことはリスクがある。それでもお守り袋に入れて一緒に置いたのは、この子のことをどうか守ってほしいって母心っていうのかな、願いがあると思ったし、いつか律が自分のことを探して会いに来てくれることを期待してたんじゃないかなって思って観てた。今のところは気付いてないし、ぎくしゃくしてるけど。

事情をもし知ることがなかったら、律は自分のこと捨てただけでなく、きれいに忘れてもうひとりの息子と幸せに暮らしてることをただただ恨んで、ジャーナリストにそそのかされて復讐してたと思うのね。でも事情を知って、一度は乗った暴露にブレーキを掛けた。

サトルが韓国に公演で出掛けたとき、見に来てくれてた好意を寄せるサックス奏者の塔子(とうこ)とデートするからって付き人の凜華(りんか)を先に日本へ帰すんだけど、街ナカでパスポートやスーツケースを奪われたのを律が助けたことが縁で、日本に帰ってきたときに橋渡しをしてくれて、サトルの運転手として母親の傍で働く機会を得るのね。

ただある日、サトルが恋人として塔子を紹介する席に例のジャーナリストがやって来て、レストランで大勢のお客が見てる前で、わざと大声で、母親がひた隠しにしてきたスキャンダルを匂わせる発言をするの。律に、あとは暴露記事を出すだけの段になってドタキャンされた鬱憤もあってね。律は母親が大勢の前で辱めを受けることが我慢ならなくなって、運転手だから母親、サトル、塔子、凜華の居るテーブル席からは離れた場所にひとり居たんだけど、席を立つとジャーナリストを殴り倒す。

そんな姿を見て凜華は、律が母親を探しに日本に来て、サトルの母親が実は律の母親でもあることをまだ知らないから、どうしてただの雇い主なのにそこまで熱くなるのか、律に尋ねるの。


律:

捨て子だからだよ。
捨て子ってのは、人の役に立たなきゃ生きてる意味がねぇんだ。
そうだろ?
親にとって子どもは無条件に可愛い。
生きてるだけで OK(オッケー)だ。
でもオレはそういうわけはいかねぇ。

凜華:そんなこと思いながら生きてきたの?今まで。
律:あぁ。


そんな律の知られざる思いを知って『えらいね』って頭をなでなでして、『よくここまでおおきくなったね』って労う凜華に母を重ねて想いが溢れたのか、唐突に膝枕を頼んだかと思えば、子守唄を歌ってくれってせがむ。目を閉じて聴く律の目からは、涙が流れ落ちてた。

ぼくね、パートナー(=結婚した連れ合い)と一緒に観てたんだけど、彼女に言われてぼくも涙がつぅっと出てたのに気がついたの。ドラマみたいにぼくも母親にはしてもらえなかった膝枕頼んで、律と同じく歌い聞かせてもらうことが叶わなかった子守唄は・・『あきほさん(=パートナーの名前)、音痴だからいいや』『オイ!』ってなったけど、律の気持ちが判る。生きてるだけで OK って、そんな子どもに産まれたかったなって。虐待そのものへの恨み辛みは、赦すでもなく 赦さないでもなく(http://ippunkan.blog.fc2.com/blog-entry-289.html)って心境に今は至ってて、もう心の置き所が出来たって思ってたけどね。まだ言いようのない淋しさみたいなのが残ってたんだなって思った。

ぼくには二親いたし、捨て子じゃないし、施設で育ったわけでもない。でも、実質は家庭内で捨てられてたも同然だったし、だからいつも理想の息子に近づけるようにって、それは両親の期待に応えて人の役に立つことで存在を認めてもらいたいっていう、幼い子どもながらに必死に身に着けた生きる術だったんだと思う。役に立つ人間になれなかったら、親から見放されちゃうからね。それじゃ生きていけないから、子どもは。必要とされたいから、家事も進んで担ってたな。

律を観てたらさ、(ドラマ)『コードブルー(ドクターヘリ緊急救命)』の「藍沢耕作(あいざわ こうさく)http://www.fujitv.co.jp/codeblue/chart/index.html」思い出した。

フライトドクター候補生『フェロー』として他の救命で研鑽を積んだあと翔北救命センターに赴任してきた藍沢は、『同期のフェローの誰よりも先に名医になる』って宣言して、とにかく症例をひとつでも多く経験しようって躍起になってた。頭の中はそればっかり、『患者に寄り添うとか意味あんの?』みたいに。

フェロー初期の頃に工場の事故で患者さんが右腕を切断するしか助かる方法がないってなったとき、藍沢はなんら躊躇することなく切断をその場にいた指導医に進言して腕を切断した。後で『まだ若いのに切断なんて』って動揺する同期からどう思ったか聞かれて『楽しかった』なんて答えたりして、腕は誰もが一目置くけど、人間的に難ありって感じが気になってた。『医者は必要とされないと意味がない。だから腕を磨く』その信念ってどこからくるんだろうっていうのも。

それは、藍沢の祖母が入院して判った。両親は藍沢が6歳のときに離婚して、祖母から父は死んだって聞かされ、母は胃がんで亡くなったって聞かされてたけど、ある日死んだはずの父が祖母を訪ねてきてほころびが出る。本当はどうだったのか知りたい藍沢の想いに、父は応えるのね。

両親共に大学の研究者だったけど、母は優秀な人で、父は落ちこぼれ。父は一歩先を行く母を自分のところまで引きずり下ろしてでも傍に居させたいと子どもをつくった。でも当時、今もなのかな、研究の世界は10年研究しても、一秒でも先に研究成果を論文で発表されたら一瞬で水泡に帰すシビアな世界。子どもを産み育てながらの研究なんて到底無理だった。

そうしたこととも相まって父や祖母が喜ぶ中逡巡しながらも藍沢を産んだけど、出産時に出血して子宮を摘出することになって、産むことを悩んだ罰だと精神的に不安定になった。父は自分の顔を見てると辛いだろうからって『死んだことにしてくれ』って祖母に伝えて、妻からもまだ子どもだった藍沢からも逃げるように家を出て、母はその後『ちょっとずつ良くなってきてる』って父に連絡した後、マンションの給水塔から落ちて亡くなった。

『自殺したんじゃないのか?』藍沢は問いかけるけどまっすぐには答えずに、『母は雲を見るのが好きな子どもみたいなところがある人で、いつもマンションの給水塔に登っては見ていたけど、柵が古くて、そこに寄りかかったせいで落ちて亡くなった。あれは事故だった』としか言わない。

でも、回想の場面は壊れた柵の下に母の靴が揃えて置いてあって、否が応でも自殺を連想させた。『間違いないんですか?離婚して家を出ていたのに。なんでそう言い切れるんだ』ってさらに問いかけられても『あぁ』とだけ答えて、自殺じゃないって思い込もう、思い込ませようとしてた、祖母もね。

母の死の真相を語る前、亡くなるその日に投函した父宛の手紙を持参して病院を訪ねたものの藍沢に会うことを躊躇して、帰ろうとしたところを応対した同僚のフェロー白石(しらいし)にアイツへ渡してほしいって託してた。その手紙にはこうあった。


一つだけ言えるのは、耕作は悪くはありません。
今はただ、お互い未熟だった二人が子供をつくってしまったこと。
そのことに、ただただ自責の念を感じるばかりです。


母の死の真相を知ったことと併せて、胸が張り裂けそうだった、観てて。母を引きずり下ろすために子どもをつくったのかって。給水塔から落ちて亡くなったって聞いた後の手紙だから、『自殺は俺のせいか』『俺が産まれたせいで』って思うよなって。そうでなくても祖母に育てられてるとき、『僕は良い子?』が口癖で、良い子じゃないから捨てられたって思いながら今の今まで生きてきたんだから。それが、必要とされることへの執着の原点だったんだなって。

藍沢にじぶんを重ねて観てて、ぼくが産まれたせいで家庭内がこんなにもギスギスしちゃったんだろうかって思い悩んだ。虐待するような親にしちゃったのかなって。だから息苦しい家を出て、両親から解放されて、じぶんで働いて生きていける高校卒業後。18歳になることが、ぼくにとって生きる希望だったよ、ずっと。そうすれば、ぼくの居ない家族は円満になるんだろうって。

でも、結局虐待の後遺症の呪縛がすごくて、人の役に立つことでしか生きてる意味が見いだせなかった。認められたいって・・承認中毒だよね。生きてるだけで OK の子どもとして産まれたかった、居たかったなって。だから、『そんなこと思いながら生きてきたの?今まで。』なんだよな、多くの人にとっては。想像もつかないんだろうなって。

同情してくれとか、そういうのじゃないんだけどね。羨ましいなって思ったよ、『捨て子だからだよ。捨て子ってのは、人の役に立たなきゃ生きてる意味がねぇんだ。そうだろ?親にとって子どもは無条件に可愛い。生きてるだけで OK(オッケー)だ。でもオレはそういうわけはいかねぇ。』って思わずに生きていけるなんて。条件付きじゃなくていいなんて。

今更感はあるっていうか、言ってどうこうなるってもんでもないけど、それでもさ、夢見ることぐらいはあってもいいと思うんだよな。




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饅頭喰人形の問いかけを思う。

姉とぼく。
同じ親から産まれた子どもはどうなんだろう。

母亡き今もしも問いかけたら
父はどう答えるんだろう。



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『自慢の弟だって褒めてたよ』

姉からランチに誘われて
姉の友人とご一緒したとき

待ち合わせ場所へちょっと早めに来ていた彼女からそんなことを言われて
『会えるのを楽しみにしていた』と言われたとき

戸惑いを滲ませ
ぼくは姉の友人にこんなことを話していた。



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今だったらそう言われて胸張れますけどね。
ようやくですけど。

結婚して、家庭持って、アーリーリタイアして、ライフワークにうつつ抜かして、ようやくなんか人並みになれたっていうか、こうだって言えるものが出来たっていうか。今までが今までっていうか、ぜんぜんダメダメだったんで。姉には、弟っていうにはあまりにも恥ずかしい思いをさせてしまったんじゃないかってずっと思ってましたから。

ずっと厳しい躾で育って(=虐待だったことは伏せてある)、家族から一度として褒められたことなんてないままおおきくなって。不仲でしたから、両親とも姉とも。出来の良い姉はいつも家族の話題の中心に居ましたけど、ぼくが話題にのぼることなんて一度もなくて。

そんなでしたからひねくれてしまって、正社員で家族を養ってこそ男だし一人前だって考えてた両親の期待に反してぼくは出来が悪くて、職住近接がいいから通勤は歩きか自転車で10分~15分くらいが限界だの、痴漢に間違われたくないし密着度高くて暑苦しいから満員電車は嫌だの、スーツはめんどくさいから着たくない、それも夏に長袖なんて生理機能に反してるのにビジネスマナーだとか思考停止じゃないの?だの、どこの国を真似たんだかカラッとした気候の国ならまだしも高温多湿の日本で健康害してまで長袖着るなんて狂ってるだの、誰が決めたのか知らないけど一日8時間労働なんて体力的にも精神的にも無理だの長過ぎるだの、週5日勤務なんて多過ぎるだの、残業3時間なんて吐き気がするだの、残業しないと生活出来ないなんてあり得ないだの、体調崩すし寿命縮まるから交代制勤務とか夜勤なんて嫌だの、雨の日は事故の後遺症でだるいから働きたくないだの、暑い日なんて熱中症になってまで働くもんじゃないだの、腰痛いから立ち仕事も力仕事も無理だの、じぶんが働かないとお金を稼げないなんて嫌だのなんだの言って、勤め人に向いてないから株式投資で若くして引退するなんて常識人の大人が聞いたら『アホか』『夢みたいなこと言ってんじゃない』『地に足着けてまっとうに働け』って言われるような子どもじみたことばっかり言ってて。

動機が不純だったんですよね、まっとうに生きてる人たちからすると。あまりに不真面目で、とにかく軟弱でしたし。仕事をアーリーリタイアの手段って割り切ってるぼくからしたら、自己実現とか人間性磨くとか、社会貢献とか出世欲とか縁遠い話でしたし、新年会とか忘年会とか、歓迎会とか社員旅行とか鬱陶しいだけでしたし。

だからほんとうは小心者だったりコミュニケーション音痴だったりが原因で職場に馴染めなかったり人間関係に躓きまくって仕事が続かなくて職を転々、人生は流転してたときに、『いい歳してなんだ。ちゃんとしろ』『そんなんだからおまえは駄目なんだ』みたいに言われてたんです、会う人会う人に。もうやんなっちゃうくらい。やりたい仕事じゃなくて、『好きなことを仕事に』でもなくて、やれる仕事で選んで、『雇ってくれるところへ行く』なんて感じでしたし、余計にイラつかせちゃうんでしょうね。

でもぼくにとってはだからこそ小心者でもコミュニケーション音痴でも一旗揚げられる強者も弱者も平等な、ハンデがないってことなんでそれはそれでですけど、ひとりですべて完結できる株式投資の世界がぼくに残された最後のジャパニーズドリームだったんで、なんと言われようとも不純な動機をターボエンジンにして引退できる日を夢見てたんです。『早く辞めたい』『早く辞めたい』って、そればっかり言ってました。

同世代の人たちが高校出たり大学出たりしてからコツコツ勤め上げて昇給したり昇進したりする姿だったりとか、両親の誕生日だったり結婚記念日お祝いして食事に誘ったりだとか、実家に仕送りしたりボーナスで旅行プレゼントしたり一緒に出かけたり、結婚して家庭持ったり赤ちゃん見せてあげられたりしてるの見て、ぼくはなんにも出来てないなぁなんて、そんな人たちを見聞きするたびに落ち込んでましたから。他人のモノサシかもですけど、何者かになりたかったんですよね、ずっと。

ちょうどそんな頃姉に、紆余曲折あって家族をやり直そうって思い始めたときに(http://ippunkan.blog.fc2.com/blog-entry-251.html)、それも不仲だった家族である姉に産まれて初めて『自慢の弟だ』って褒めてもらって、嬉しい半面なんでだろうっていう思いは消えなかったんですよね。だって、当時のぼくは胸張れるものなんてなにひとつなかったですし、姉は、ぼくのなにを見てそう言ってんだろうって。




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8月26日

肺がんの治療開始を待つ間に肺炎を併発
救急搬送後に入院した父
http://ippunkan.blog.fc2.com/blog-entry-361.html

9月現在その後の治療は芳しくなく

8月28日の時点で
余命3ヶ月から半年と告げられていた。



飲み込みに難のある嚥下障害のために

飲むことも
食べることもままならない。

治療開始を待つ間に坂道を転げ落ちるように衰弱し
救急搬送されるときにはほぼ寝たきりにまでなっていたために

入院後は筋力も体力もげっそりと落ちた。



9月の3連休明けには

肺機能の低下
痰の絡みが酷いために

話すこともままならないところにまで衰弱が進んできた。



こちらが話すことばは届いていて
しっかり理解出来ている。

それを受けてなにか父が話そうとしてくれるのだが
唇に耳が付くか付かないかくらいにまで近づけても

父のことばは囁き声にも届かないほどで
聞き取ることが容易ではない。



こうした患者さんに日々接している看護師さんでさえ
父の発することばを聞き取ることに難儀するほど。



筆談もやってみたのだが
筋力の低下が著しく
鉛筆やボールペンさえもう持つ握力がない。



だから、耳を傾けなんとか聞き取ろうとするしかなかった。



                    *



3連休明けの火曜日(19日)
顔を出したときだった。

16日金曜日に顔を見せたときよりも
明らかに弱っている印象があって不安を覚えた。



なにか話そうとしていて耳を近づけていたら

ふいに震える右手で
やや乱暴に

頭をよしよし(ごしごしと言ったほうが近い)と撫でた。



『ようやった』と言った。
頭をぺしっとした。



戸惑った。



『医療費を全額負担していることに』だろうか。
『こまめに顔を出していることに』だろうか。



余命は告知出来ずにいたために
死期を悟るかのようでさらなる不安を覚えたが
そうではないなにかで涙がわぁっと溢れてきた。



父には伏せていたが

実家のゴミ屋敷のような書類の整理や
お彼岸が近いからと仏壇の掃除を頼まれていて

仏壇の引き出しを整理していたら

へその緒が入った『寿』と書かれた桐箱と
名前を命名した証(書のようなもの)が出てきた。



いずれにもぼくの名前があって

桐箱は開くと中のへその緒は
一部が粉末のようになっていた。

証も経年劣化で茶色く変色し
あちこち虫に食われ

穴が空いていた。



虐待されるような産まれ落ちることが誰からも歓迎されないじぶんに
こんなものなどあるはずがないと思っていたから

今の今まで大切に残されていたことに
ぼくは今まで父に対してしてきたことと綯い交ぜになり

ことばがなかった。



見つめていると

『ぼくは歓迎されてこの世に生を享けたんだ』

その後に待っている虐待の日々からは想像もつかないが
少なくとも産まれたときには

ぼくという存在が祝福されていたんだと思えた。



それは

中学2年生のときいじめを苦にして自殺した折
ぼくがこの世に居た証なんてなにひとついらないとばかりに
身辺整理に写真という写真はすべて焼き尽くしていたのだが

母が末期がんで他界後
病院の個室で荷物を整理していたときに出てきた母子手帳に

幼い頃のぼくの写真が
大切に挟んであるのを見つけたときと同じ想いだった。
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                    *



理想の息子にはなれなかった。
なにひとつ期待には応えられなかった。
出来の悪い息子だった。



姉といつも比べられた。
劣等感にまみれていた。



他所様の息子と比べられた。
父に恥ずかしい思いをさせてきたと思っていた。



『ようやった』



43年の人生を労ってもらえたと思った。
43年生きてきて初めて息子として認めてもらえたと思った。



                    *



『親孝行ってなんだろう』とずっと思ってきた。



同世代の人たちが高校を出たり
大学を出たりしてからコツコツ勤め上げて

昇給したり
昇進したりする姿だったりとか

両親の誕生日だったり
結婚記念日をお祝いして食事に誘ったりだとか

実家へ仕送りしたり
ボーナスで旅行をプレゼントしたり一緒に出掛けたり

結婚して家庭を持ったり
赤ちゃんを見せてあげる。

そうした育ててもらったことへの恩返しにも似たことが
ぼくはずっと親孝行なんだろうと思ってきた。



だからそれがなにひとつ出来なかったぼくは

じぶんのことを
親不孝とか恩知らずとか思ってきた。

実際他人様や世間様から
なじられるようにねちねち言われていたし

両親もぼくのことをそう見ていると思っていた。



でも父にとっては
そんなことはどうでもよかったのかもしれない。



親孝行は、取り立ててなにかをすることじゃない。

7度の自殺未遂を繰り返してきた。
それでも生きているということ。
親よりも先に逝かないということ。

それが、親孝行なのだと。



この想いだけでぼくは
生涯生きていけると思う。



病に伏す父を前に思った。
別れの時が迫る父を前に思った。