白色の自己主張

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弱さ ~ ヒーロー篇 ~

白色の自己主張
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photo credit:noe** via Flickr (license)



白色の自己主張 ~ 何色にも染まるたおやかさ 染まらない凛凛しさ ~



                    *



                  320通目



                    *



災害拠点病院

翔陽大学附属北部病院救命救急センターを舞台にした医療ドラマ
(ドラマ内の病院呼称:翔北救命センター)

コード・ブルー ~ ドクターヘリ緊急救命 ~ THE SECOND SEASON
#9「心の傷」に、こんな場面があった。



                    *



フライトドクター候補生『フェロー』として
各地の救命で研鑽を積み赴任してきた

藍沢耕作(あいざわ こうさく)
緋山美帆子(ひやま みほこ)
白石恵(しらいし めぐみ)
藤川一男(ふじかわ かずお)

4人は困難なミッション
厳しい現実に打ちのめされながらも

同期の絆
互いの存在
命の現場を巡る人間ドラマを支えにフライトドクター養成課程を歩み

折り返し地点を過ぎて
卒業後の進路への迷い
修了認定を間近に控えるところまでやって来ていた。



                    *



ある日

アルペンスキーヤーの田上(たがみ)が競技中
コースを外れ立ち木に時速100キロで激突。

ドクターヘリ要請が入り搬送されてきた。



アルペンスキーヤーに怪我はつきものとばかりに

慣れた様子で医療チームのバタバタを横目に
スキーヤーの命である脚の具合を気にする余裕を見せていたが

外からでは判らない症状を調べるため
CT(頭頂部から順々に身体を輪切りした映像)を撮ろうと

ベッドで運ばれながら検査室へと向かっていた時だった。



アルペンスキーは

身体能力
技術
勇気

3つを競うスポーツで

以前大怪我し一年近いリハビリを経て復帰した時には
大怪我した時と同じコースで自己ベストを出したと

ネックレスにしてお守りとして持っていたという
脚に入っていた骨を固定するボルトを

付き添った白石と緋山に見せてくれた。



その際

見せるために上げた右腕に
麻酔をかけてもいないのに痺れがあると漏らしたことで

急遽更に詳しく調べてみると
脊柱管狭窄症による痺れが出ていることが判った。



一緒に診断画像を見た緋山はフライトドクター養成課程の中で

子どもの脳死の医療手続きを巡り
患者側から医療過誤の疑いをかけられ

提訴こそ取り下げられたものの
家族や患者を思ってベストを尽くしたのに報われず
『人殺し』とまで言われたショックから

現場に復帰を許されたものの
以前の勝ち気な性格は影を潜め

患者を診ることへの恐怖や
患者の人生を左右する告知に耐えることが出来ず

どう告知するか相談を持ちかけた白石に託してその場を逃げ出してしまった。



                    *



独り残された白石。



脊柱管狭窄症は
ちょっとした衝撃でも全身麻痺になりかねない。

一生寝たきりもありうるとは
現役のそれもプロのアルペンスキーヤーにとっては死の宣告にも等しいが

誰かが言わねばならない。



告知を避けることは出来ず
意を決して病室を訪ね
白石は告知した。



                    *



家族は

怪我をしてリハビリで苦しむ顔は見たくないから
応援したい気持ちとの間(はざま)で複雑な思いはあったが

内心ホッとしてもいた。

ただアルペンスキーを諦めなければならないと知った
田上の死んだような顔はもっと見たくなかった。



田上は諦めきれずにいた。



3歳から滑ってきて

今自分からアルペンスキーを取り上げたら
他には何もない何も残らない。

いきなり『やめろ』『無理だ』と言われても。



勝手に病室を抜け出し
院内の階段でリハビリしていた田上は
足を滑らせ転落していたところを発見された。



幸い脊柱管狭窄の症状悪化も見られず
怪我も大したことはなくて済んだが
なぜそこまでして現役にこだわるのか。



現役引退後の生活を見据えて
救命から整形外科への移動を告げに来た白石に
田上は想いを吐露した。



                    *




(家族3人の写真が入った写真立てを見つめながら)

田上:一度でいいから滑れる方法はありませんか?
白石:田上さん・・

田上:

見てないんです!娘はまだ。
娘は見たことないんです、俺の滑ってる姿を。
一度でいい。
たった一度でいい。
滑ってる俺を、俺の仕事を子どもに見せたい。
これが父親の仕事だって。

白石:・・それで現役を続けていたんですか。
田上:(白石を見遣り訴えかけるような目で)お願いします。


(白石は医師である自身の父がもう随分現場を離れていることに不満を抱いていた。でもそれが末期の肺がん故に残された時間を後進の育成に充てたい・最期まで医師としてありたいからなのだと知る。休んでほしいが全国を講演で飛び回る父に頑なな田上を重ねて白石も想いを吐露する)


白石:

わたしの父は医者です。
同僚からも、家族からも尊敬される医者でした。
その姿を見て、わたしも医者を目指したんです。
小さいわたしにとって、ヒーローでした。

田上:だから俺も

白石:

でも・・でも今は、その父も体を壊してもう長くは生きられません。
そうなってみて初めて気づきました。

・・ヒーローじゃなくていい。

元気でいてほしい。
ただ、元気でいてくれればって。
今、わたしはそう思います。

ヒーローでいることがそんなに大事ですか?

家族のためにベストな決断をしてください。
田上さんは、3歳の頃から自分の勇気を試してきました。
本当の勇気を知ってる人だと信じてます。




                    *



たとえアルペンスキーヤーを下りても娘に遺せるものがある。
挑戦することも勇気なら、下りることも勇気。



田上はアルペンスキーヤーを下り
家族にもうハラハラさせない冬を迎えてもらうことを選んだ。



一生寝たきりになるリスクを負って賭けに出て
娘に滑っている姿を見せることよりも。



                    *



8月11日
ぼくは、父についてこんなことを書いていた。



                    *



ぼくの父が


そけいヘルニア(=脱腸)で手術することになったから
紹介状取りに行ってもらえんか。


そう電話で言ってきたのは
紹介先の病院へ向かう前日。



戦時中産まれで
忍耐(辛抱)強くあることを親から厳しく躾けられたことであったり

敗戦後の貧しい時代を生き抜いてきた人だから
耐えに耐えてギリギリまで病院にかからない貧乏性のところがあるというか

(同時代に産まれた母のがん発見が末期になるまで遅れたのも同様)

脱腸になってもペインクリニックで
痛みを抑えることばかりを繰り返してきて
とうとうそれも難しい段になって

ペインクリニックの院長さんから『手術した方がいい』と促され
ようやく重い腰を上げたというわけだった。



それまで実家訪ねたときには
一言として話してはくれなかった。

というよりは
産まれた時代背景もあるのだと思うけれど

周りに迷惑をかけたくないと思ってしまったり
国際結婚で再婚しているし

とうの昔に定年を迎えて悠悠自適の生活とはいえ
一家の長としてしっかりせねばという自覚や想いがあったのだろう。



再婚したお嫁さんやぼくの姉は仕事で父には付き添えないので

タクシーを呼んで
父には先に病院へと行ってもらい

ぼくは紹介状を取りに行ってから
紹介先の病院で合流することにした。



                    *



診察を迎えると外科の先生が

全身麻酔による腹腔鏡手術で
右の脱腸部分の処置だけでなく
予防的に左の部分も脱腸していないか診ることが出来る方法か

局部麻酔で右の脱腸部分だけを手術で処置するか
いずれかの方法を選択するために

また高齢ということもあり
術前検査をすることになった。



血液検査や尿検査といった一般的なものから
レントゲンや負荷をかけたうえでの心電図検査など

諸々1時間近くかけて検査を受け
この日は帰っていいということになった。



父の話では

当日入院
2~3日後には手術

すっかりそんな慌ただしい流れになると聴いていて
着替えなども持って出掛けたのだが

よくよく考えれば脂汗かくような痛みがあり
命に危険が及ぶような緊急手術の必要でもない限りは

安全のためにどの程度の麻酔に耐えられるのか
体力も含めて仔細に検討するのが当然といえば当然。



父ひとりが焦っていたようで
翌週検査結果を踏まえて手術の方法・日程を決める段取りとなって
なんだか笑い話のような一日はこうして終わった。



                    *



週が明け
検査結果を踏まえて手術の方法・日程を決めるため
父に付き添って病院へと足を運んだ。



検査結果を踏まえて
脱腸の手術とばかり思っていた父とぼくに示されたのはレントゲンの画像。

そこには
左肺に野球ボール大の巨大な腫瘍が写っていた。

レントゲンを見る前にさわりで『腫瘍』と聞いて
ビー玉やせいぜいピンポン玉を想像したが

『あぁ・・』二の句が継げないほどのもの、衝撃だった。



脱腸の手術はしないよりはした方がいい。

ただ当面は痛みが耐え難いほどに酷くならない限りは
手で元の位置に押し戻したりしておけばいい。

薬もある。

それよりもこの腫瘍の処置を最優先させた方がいいとなり
『悪いものと考えたほうがいい』との前提で
脱腸の件は思わぬ方向へと転がり

急遽 CT検査をすることになった。



父は(本当はいけないのだが遥か昔のことだからまぁいいとする)

18歳から70歳までの52年間
切れ目なくタバコを吸い続けてきた。

国際結婚で再婚したお嫁さんに健康面から何度注意されても。



特に定年まで勤め上げた新聞社勤務時代は
一箱が一本分の感覚だったというから相当な量だろう。

タバコは一本吸うと15分寿命が縮むと言われていて
52年間トータルでどれだけ吸ったのだろうと考えると

今の今まで生きてこられたことが奇蹟のように思える。



ここ最近痰にぽつぽつとだが血が混じっていたらしく
(このことも心配掛けまいと思ったのか話してくれてはいなかった)

以前から呼吸が苦しそうだったのを知っていながら
どうしてもっと早く引きずってでも病院へ連れて行かなかったのか。

レントゲンを撮らせなかったのか。



もっと早くに連れて行ったら
こんなにも巨大な腫瘍で肺が占拠されることはなかったのかもしれないと

両親に虐待されて育ちながらも

家族の歴史を辿る私家版ファミリーヒストリーを創ったことや
http://ippunkan.blog.fc2.com/blog-entry-251.html

赦すでもなく 赦さないでもなく
http://ippunkan.blog.fc2.com/blog-entry-289.html

というこころの置き所を見つけ

紆余曲折を経て30代後半になり
家族をやり直しながらもと

CT 検査から帰ってくる父を待つ間何度も悔やんだ。



                    *



CT の画像が上がってきて再度外科の診察室に呼ばれると

上から見た肺の画像がモニターに映し出されていて
やはり左肺の半分をゆうに塞ぐほどの巨大な腫瘍があった。

素人目に見てもこれはまずいなと思うおおきさ。
レントゲンと併せてショックだった。

今もって頭を離れない。



来週週が明けてすぐに今度は呼吸器内科で
腫瘍が良性か悪性かを調べることとなったが
良性ということはまずないだろうと思う。



診察を受けたこの病院は

今から28年前
末期がんで余命3ヶ月と言われた母が入院し

その後6年近く長生きして不帰の人となった病院。



皮肉な巡り合わせだと思ったし
なによりあの巨大な腫瘍は
母の病状説明の折見たものと似ていた。



脱腸のことや痛みのことは
どれほど聞いても『だいじょうぶだ』としか言わない父が
このときだけは『だいじょうぶ』と口にしなかった。



                    *



ぼくが知る限り
父が教えてくれる限りだけれど

肺気胸2回
初期の膀胱がん
鼻茸

都合4回入院したことがあったけれど
特段タバコの害で重篤な症状に陥ったことはなく

いずれも完治して鉄人のように見事に復活していた。



ぼくにとってそんな父はヒーローだった。



虐待を受けて育ち

恨み辛みは殺したいほどだったが
(こころの中では何度も殺していた)

今思うと逞しく眩しい存在だった。



両親から『強くあれ』と虐待によって厳しく躾けられたが
父のようにはなれないと自覚していたからこそだった。



会社員として定年まで勤め上げ
一度として家族を経済的に困ることなく養い支えてくれた
そんな強き父もまたヒーローだった。



でも今は、そんな父も弱々しい。



77歳

長年の喫煙で肺機能はさすがに弱っているし
膝を痛めて歩くことも億劫だ。

特に『階段を降りるのが怖い』と言っている。

サプリメントを飲んではいるが夜間頻尿で睡眠不足がちだし
薬はあるものの脱腸の痛みと相まって

睡眠負債が心臓に負担をかけないか心配でならない。



以前のように快活に

ボランティア活動
趣味の写真
国内外の旅行

に勤しむことも出来なくなり
実家では横になっていることが多くなったし

膝の痛みもあって買い物などに出掛けられないから
再婚したお嫁さんやぼくが買い物に行くし

ゴミ出しなどもぼくらがするから
家から出ることがほとんどない。



運動量が落ちれば

肺活量
体力
筋肉量

すべてが低下するから
腫瘍の行方次第で始まる手術や治療への影響も懸念される。



出来ることなら父が動ければと思うがそれも難しい。

ことばにこそ出さないが誰よりも辛いのは
身体が思うように動かない父。

悩ましい限りだ。



                    *



病気を機に父と話す時間がぐぐっと増えるなんて
なんて皮肉なことだろう。



でも今はドラマで白石が父を思うように

何度でも立ち上がるヒーローじゃなくていい
元気でいてほしい

ただ元気でいてくれればと思う。



朝外来や検査などで行って
昼前に終わっての病院からの帰り道

暑さ
睡眠不足
痛みから食欲が落ちている父にとって

外食すること
食べることが

今の父にとっての数少ない楽しみだと気づいた。



何処にでも付き合うよ。
なんでも好きなもの食べてよ。
家で食べたいものがあったらなんでも買ってってよ。
ぼくが食べたいもの、作ってもいいしさ。

思い立ったときに
思い立ったことを
ありとあらゆる出来ない理由を全部自動ドアに変えて思う存分やれる。

父の『あれがしたい』『これがやりたい』を全部叶えてあげたい。
そのためにぼくはアーリーリタイアしたんだからさ。



父が一日でも長く生きられるなら

どんな最先端の治療法でも
どんなに高額でもいいから

望むものすべてをお金の心配なく遠慮なく受けてほしい。

家族が
大切な人が傍に居てほしいと願うときに
なんの縛りもなくいつまでも居られる。

すべてにぼくが合わせるのではなく
すべてがぼくに合わせてくれる。

そのためにぼくはアーリーリタイアしたんだからさ。



                    *



実家にある萎れた鉢植え。

本当にくたっとなっていて
誰の目にも『こりゃダメだろ』と映るだろう。

とうにサヨナラしてもいいほどなのに
どうして父は大切に大切に毎日水をやるのか。



『認知症』と言う人もいるがそうじゃない。
(日常的に外国語を使い脳に高負荷をかけているので)



もうヒーローでなくてもいいけれどそこに込められた

想いを
願いを

ぼくは全力で応援したい。



脱腸の術前検査で撮ったレントゲンによって肺の腫瘍に気づくという
好運と幸運を併せ持つ人なのだから。



                    *



そんな父も病には抗えず

検査
入院
治療と慌ただしくも濃く過ぎた約2ヶ月を経て

9月21日には主治医から家族への説明として
http://ippunkan.blog.fc2.com/blog-entry-366.html

『早ければ余命3週間』と告げられた。



父に余命は伝えていない。
(バカ正直に伝えればいいというものではないので)

当初の見立て余命3ヶ月から半年が
ここへ来て3週間へと大幅に削げ落ちた。

それでも出来る治療法
最新の夢のような抗がん剤があるにはあったが

薬価面はともかく
余命と引き換えに治療効果を引き出す色合いが濃く

同意は見送った。



残る選択肢は、ホスピスへの転院。



ただこれは
死期が迫っていることを知らせるのも同様で
どう伝えるか家族で悩んだ。



病院に臨床心理士さんが相談に乗ってくれる窓口があり
さっそく昨日26日に出向いて話をした。



『ホスピス』というキーワードをストレートに伝えるのではなく
『オブラートに包んで』という言い方があるように

『(救急病院という性格上ここはバタバタするので)穏やかに過ごせる場所へ移ろうか』

そんなふうに提案してみてはと助言していただき
キーワードを出さないで伝えたいことを伝えるという方法があるなんてと目から鱗。

話しやすいお人柄と併せて気持ちが楽になった。



ストレートに伝えても
オブラートに包んで伝えても同じメッセージを送れるなら
『希望』を感じられるものがいい。



あとは家族ひとりひとりがどう思うのか。



決して父一色ではないのだが

父のことを考えるあまり
自分の気持ちを横に置き過ぎていないか。

そこが気になると指摘されたので
素直な気持ちも乗せて提案してみようと思っている。



                    *



そんなお話をしていくなかで

虐待を受けて育った不仲な関係から
30代後半に家族をやり直し始めてまだ8歳(=8年)だからか

男親と息子というややこしい関係性で
ぎくしゃくして話すことも単語ばかりで間が持たないのか

はたまた『永遠の二番手』ゆえに病室のカーテンを開けると
http://ippunkan.blog.fc2.com/blog-entry-358.html

姉だったとき『よう来てくれたねぇ♪』
ぼくだったとき『なんだ、おまえか(=残念)』になるからか

ぼくが病室を訪ねてしばらくすると
が~が~いびきをかいて父が眠ってしまう。

『なんなんですかねぇ、まったく』

笑い話のようなことを話していたときだった。



姉や国際結婚で再婚したお嫁さん
友人らが訪ねてきたときには
いびきをかいて眠るなんてことはないのに。

『ぼくがまだ目の前に居るのに、ひとりさっさと寝るかねぇ』

口をとんがらせて不満を漏らしていたら
臨床心理士さんはこんなことを言ってくれた。



                    *




安心してるんですよ。
お父様はもうヒーローじゃなくていい。
弱さを見せてもいいと思えてるんじゃないでしょうか。




                    *



父が治療開始を待つ間に肺炎を併発して
8月25日救急搬送された翌日夜
http://ippunkan.blog.fc2.com/blog-entry-359.html

痰が喉につかえる感じが酷くなり
呼吸困難を訴えてナースコール。

救急搬送 → 入院当初運ばれた大部屋から個室へと移されていた。

個室は重症化している患者さんが入ることが多いために
訪ねたときには怯えるような目で不安がっていた。

末期がんで逝った母のときと同じだからだ。



あれだけ弱音を吐かない人がぼくに『怖い』と言った。

このぼくに。
初めてのことだった。

でもあれ以来ぼくに弱音を吐くことは一度としてなかった。
入院したこの2ヶ月で。

口には出さない人だけれど
きっと夜は怖くて心細くて眠れないのかもしれない。



戦時中に産まれ

戦禍で両親が命を落としても
明日をも知れぬ時代を弟や妹の面倒をおまえが見るんだと

兄である父は叩き込まれたという。

家族を持てば一家の長として
路頭に迷わせてはなるものかと
いつだって自分より家族優先の強い人であり

定年後に勤しんできたボランティア活動では
自分のことより困っている人をいつだって優先する強い人だった。



良く言えば、強き人。
悪く言えば、自己犠牲。



そうした生きかたしか選べない不器用な人だから

姉や国際結婚で再婚したお嫁さん
友人らが訪ねてきてくれるときは

良くも(=人当たりが良いという人物像)
悪くも(=伝えなければいけないことの7割しか話さないので3割の通訳が必要)

外面がいい人だから
つい心配ないふりをしてしまうのだろう。

『だいじょうぶ』が口癖なのもそうだ。



そのぶんぼくには気を遣わないでいいというか

『おまえならカッコつける必要もないしな』

強くなくていい
ヒーローじゃなくていい

弱さを見せているのだと思った。



                    *



でもなぜ父は
ぼくが居ることで安心して眠れるという形で
無防備な姿=弱さを見せてくれるようになったのだろう。



臨床心理士さんは


『悲愴感がないから』


と言ってくれた。



末期がんが判った人
余命が告げられた人
もう出来る治療法がない人は『可哀想な人』なんだろうか。



ぼくはそうは思わない。



『早ければ余命3週間』などと聴けば

他人様
世間様は

『可哀想』という評になるのかもしれない。



でも

介護保険の申請と認定(=自宅へ戻れるかもという期待)
主治医からリハビリの指示(=回復の見込みがある)
作業療法士さんが定期的に病室まで来てくれてのリハビリ

リハビリ室へ向かってリハビリするときに備えて買ってきてほしいと頼まれた
ベッド下に置いてある脱ぎ履きしやすい靴

酸素吸入器が取れないとがんの治療は難しいと言われながらも
(=治療効果は一定のコンディションと引き換えなので)
脳転移への放射線治療が始まったこと

10段階ある酸素レベルが一時『5』まで上がったが
今は『3』まで下がり落ち着いていること

嚥下障害があって飲むことも食べることも出来なかったけれど
昼食時のみ栄養価の高いゼリーが食べられたり
とろみ剤を混ぜてのお茶や水が飲めるようになったこと

このまま順調にいけば流動食あたりが食べられるようになるから
お茶を飲むのに使う軽くて落としても安心なプラスチック製のカップを
買ってきてほしいと頼まれ買い置いてあること

父のおせっかいで認知症 + ゴミ屋敷の孤立から脱した人たち
障害のある方の外出をサポートし世界が広がった人たち
父の人柄に惚れて早く一緒にボランティア活動をしたい人たち

そんな待っていてくれる人が居るということ・やることがあるということ
きょうよう(=きょう用事がある)
きょういく(=きょう行く所がある)

去年のクリスマスに大好評で
訪れた幼稚園や保育園から指名されて今年も是非にと
子どもたちが心待ちにしているサンタクロースのボランティア

ホスピスへの橋渡しをしてくれる相談窓口の方が本当に親身で
頼りになり気が利く人に恵まれたこと

そしてホスピス転院への前準備となる
ホスピス外来への予約が10月に取れたこと

治療開始を待つときには外来受診や検査日程が決まる度に
予定が書き込まれたカレンダーに『これもダメ』『あれもダメ』と斜線を入れ

治療開始を待つ間に坂道を転げ落ちるように衰弱していったときには
今まで出来ていたことがひとつまたひとつと出来なくなっていたそんな父の周りに

当初はそけいヘルニアの手術を終えて
肺の腫瘍の治療にもある程度目途がついたら
自宅からかかりつけ医に通って治していくと希望を持ちながらもそれが叶わなかった父の周りに

『人生への期待』『希望』を散りばめることが出来た。



だからぼくには悲愴感がなかった。



『末期がん患者だから』と接するのではなく
今まで通り『父』として接してきた普段と変わらない安心感と併せて。



なによりこの2ヶ月

43年生きてきてこんなにも父と向き合い
こんなにも話したことはなかったと思うほどの濃い日々

カルピスの原液をそのままごくごく飲むような日々を過ごせたことで
ぼく自身見送る心づもりが整ったし

この間じぶん独りで抱え込んでは共倒れになると
早々にギブアップし方方に相談してきたことは
他の人の力や社会資源に上手に依存するというか力を借りることであり

それは

『甘えるな』の自己責任
『頼るな』の自助努力
『正社員で家族を養って一人前』の男らしさ・自立

強くあるべしと両親から虐待によって叩き込まれたぼくが
自身の弱さをさらけ出すことでもあった。



そんな姿を父がこの2ヶ月見てきたから
『おまえが弱さを見せてくれるのなら俺も』と
弱さを見せてくれるようになったのだろうなと思った。



だから今は

『ぼくがまだ目の前に居るのに、ひとりさっさと寝るかねぇ』

なんて思わない。



だから今は

手持ち無沙汰だとすぐに帰ったりしないで
治療開始を待つ実家や入院してからはついぞ見なくなった穏やかな表情で
気持ちよさそうにいびきをが~が~かいて眠っている父の寝顔を

ベッドの傍からひとり静かに見守っている。



                    *



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photo credit:noe** via Flickr (license)


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