白色の自己主張

ARTICLE PAGE

スポンサーサイト

スポンサー広告
  • comment-
  • trackback-
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ごめん、だいじょうぶ、なんでもない

白色の自己主張
  • comment-
  • trackback-




白色の自己主張 ~ 何色にも染まるたおやかさ 染まらない凛凛しさ ~



                    *



                  345通目



                    *



去年8月11日。
ぼくは、父についてこんなことを書いていました。



                    *



ぼくの父が


そけいヘルニア(=脱腸)で手術することになったから、紹介状取りに行ってもらえんか。


そう電話で言ってきたのは
紹介先の病院へ向かう前日。



戦時中産まれで
忍耐(辛抱)強くあることを親から厳しく躾けられたことであったり

敗戦後の貧しい時代を生き抜いてきた人だから
耐えに耐えてギリギリまで病院にかからない貧乏性のところがあるというか

(同時代に産まれた母のがん発見が末期になるまで遅れたのも同様)

脱腸になってもペインクリニックで
痛みを抑えることばかりを繰り返してきて
とうとうそれも難しい段になって

ペインクリニックの院長さんから『手術した方がいい』と促され
ようやく重い腰を上げたというわけだった。



それまで実家を訪ねたときには
一言として話してはくれなかった。

というよりは
産まれた時代背景もあるのだと思うけれど

周りに迷惑をかけたくないと思ってしまったり
国際結婚で再婚しているし

とうの昔に定年を迎えて悠悠自適の生活とはいえ
一家の長としてしっかりせねばという自覚や想いがあったのだろう。



再婚したお嫁さんやぼくの姉は仕事で父には付き添えないので

タクシーを呼んで
父には先に病院へと行ってもらい

ぼくは紹介状を取りに行ってから
紹介先の病院で合流することにした。



                    *



診察を迎えると外科の先生が

全身麻酔による腹腔鏡手術で
右の脱腸部分の処置だけでなく
予防的に左の部分も脱腸していないか診ることが出来る方法か

局部麻酔で右の脱腸部分だけを手術で処置するか
いずれかの方法を選択するために

また高齢ということもあり
術前検査をすることになった。



血液検査や尿検査といった一般的なものから
レントゲンや負荷をかけたうえでの心電図検査など

諸々1時間近くかけて検査を受け
この日は帰っていいということになった。



父の話では

当日入院
2~3日後には手術

すっかりそんな慌ただしい流れになると聴いていて
着替えなど諸々持って出掛けたのだが

よくよく考えれば脂汗かくような痛みがあり
命に危険が及ぶような緊急手術の必要でもない限りは

安全のためにどの程度の麻酔に耐えられるのか
体力も含めて仔細に検討するのが当然といえば当然。



父ひとりが焦っていたようで
翌週検査結果を踏まえて手術の方法・日程を決める段取りとなって
なんだか笑い話のような一日はこうして終わった。



                    *



週が明け
検査結果を踏まえて手術の方法・日程を決めるため
父に付き添って病院へと足を運んだ。



検査結果を踏まえて
脱腸の手術とばかり思っていた父とぼくに示されたのは
一枚のレントゲン画像。

そこには左肺に

まるでビリヤードの玉か
野球ボール大の巨大な腫瘍が写っていた。



レントゲンを見る前にさわりで『腫瘍』と聞いて
ビー玉やせいぜいピンポン玉を想像したが
『あぁ・・』二の句が継げないほどのもの、衝撃だった。



脱腸の手術はしないよりはした方がいい。

ただ当面は痛みが耐え難いほどに酷くならない限りは
手で元の位置に押し戻したりしておけばいい。

薬もある。



それよりも

この腫瘍の処置を最優先させた方がいいとなり
『悪いものと考えたほうがいい』との前提で

脱腸の件は思わぬ方向へと転がり
急遽 CT検査をすることになった。



父は(本当はいけないのだが遥か昔のことだからまぁいいとする)

18歳から70歳までの52年間
切れ目なくタバコを吸い続けてきた。

国際結婚で再婚したお嫁さんに
健康面から何度注意されても。



特に定年まで勤めあげた新聞社勤務時代は
一箱が一本の感覚だったというから相当な量だろう。

タバコは一本吸うと15分寿命が縮むと言われていて
52年間トータルでどれだけ吸ったのだろうと考えると

今の今まで生きてこられたことが奇蹟のように思える。



ここ最近痰にぽつぽつとだが血が混じっていたらしく
(このことも心配掛けまいと思ったのか話してくれてはいなかった)

以前から呼吸が苦しそうだったのを知っていながら
どうしてもっと早く引きずってでも病院へ連れて行かなかったのか。

レントゲンを撮らせなかったのか。



もっと早くに連れて行ったら

こんなにも巨大な腫瘍で
肺が占拠されることはなかったのかもしれないと

CT 検査から帰ってくる父を待つ間何度も悔やんだ。



                    *



CT の画像が上がってきて再度外科の診察室に呼ばれると

上から見た肺の画像がモニターに映し出されていて
やはり左肺の半分をゆうに塞ぐほどの巨大な腫瘍があった。

素人目に見てもこれはまずいなと思うおおきさ。
レントゲンと併せてショックだった。

今もって頭を離れない。



来週週が明けてすぐに今度は呼吸器内科で
腫瘍が良性か悪性かを調べることとなったが
良性ということはまずないだろうと思う。



診察を受けたこの病院は

今から28年前
末期がんで余命3ヶ月と言われた母が入院し

その後6年近く長生きして不帰の人となった病院。



皮肉な巡り合わせだと思ったし
なによりあの巨大な腫瘍は
母の病状説明の折見たものと似ていた。



脱腸のことや痛みのことは
どれほど聞いても『だいじょうぶだ』としか言わない父が
このときだけは『だいじょうぶ』と口にしなかった。



すぐ後ろで説明を聴きながら見た父の背中が
うなだれてあんなにもちいさく見えた日はなかった。



                    *



いとうひろしさん作・絵のご著書

『だいじょうぶ だいじょうぶ』
http://bit.ly/2m65lb6 (リンク先は『絵本ナビ』です)

この絵本を読んでいると
あのときの父の姿が今でも目に浮かびます。



おじちゃんと暮らすちいさな男の子。

外の世界へと出掛けていく中で出会うのは
ウキウキするような楽しいことばかりではありません。

不安や困った出来事にも出会います。



『このままおおきくなっていけるんだろうか』



心が雲に覆われる時
おじいちゃんはいつだって
こんなおまじないをかけてくれるのです。




『だいじょうぶ だいじょうぶ。』




やがてこのことばに包まれておおきくなった男の子は

病に伏したおじいちゃんの手を握り
おなじないをかけてあげるのです。

今度は、ぼくの番だよと。




『だいじょうぶ だいじょうぶ。』




『だいじょうぶ』

勇気を与えてくれたり
やさしさにくるんでくれる魔法のことば。

父はぼくに言って欲しかったのかもしれません。



でもあのときの父であったり
ちょっと元気のない人から聞く『だいじょうぶ』は
なんだかとっても不安になります。



                    *



肺の腫瘍は悪性。
末期の肺腺がんでした。



肺の腫瘍の検査結果が出揃うまで

診断名が付けられず
治療も開始出来ないため

父は自宅で気休めの痛み止めに文句を言いながら
レントゲンのショックでうずきはじめた腫瘍の痛みに耐えながら

入院を待ちわび過ごしていました。



腫瘍発覚から肺炎を併発して
救急搬送されるまでの約一ヶ月

坂道を転げ落ちるような異常なスピードで
一週また一週と重ねる度にどんどん衰弱していき

入院直前にはほぼ寝たきりのようになっていました。



父はいつも介護するぼくに気を遣い

『すまんなぁ(「迷惑かけて」がこのあとに隠れている)』

が口癖でした。



救急病院へ入院しても
緩和ケア病棟へ転院しても

主治医
看護師さん
お見舞いに来てくれる父の弟妹や友人たち
ぼくら家族にも気を遣い

『すまんなぁ』

が口癖でした。



父の『すまんなぁ』を聞くと
なんだかこちらのほうが申し訳なくなる。

身近な人の『ごめんね』を聞くと
なんだかこちらのほうが悪いことをしたような気になってくる。



『なんで病気になってまで気を遣うかなぁ』
『どんなに気を付けてても病気になるときはなるんだから謝るなよ』

苦笑交じりに
苛立ちも混じっていたのを

今でも思い出します。



                    *



両親から虐待を受けて育って
不仲というか疎遠になり

高校卒業
就職と同時に実家を出た17年後に家族をやり直したとはいえ

今まで親子らしい関係が築けなかったゆえに
あれから8年経っても父との関係は

最後の最期までぎこちないままでした。



他愛もないことであっても話題やきっかけを見つけ

実家に立ち寄ったときなどには
父からぼそぼそと話しかけてくれていたのに

不仲や疎遠の傷がまだ残っていたのでしょう。

ちょっとしたことで苛立ったり
そっけない反応を返してしまったりしていました。



そのときにふと見せる
父の哀しそうな顔にこころが痛みました。

そのあとすぐに高齢故
病故の残り時間の少なさに想いが至り

『あぁ・・・ またやっちゃった』

自己嫌悪に。



でも

『あれが最期の会話になったらやだな』

その想いが前を向かせてくれていました。



ただ口喧嘩やそっけない態度が何回か続くと

目を合わせても
『ん?』となっても父の口からは

『なんでもない』

とのことばが漏れ聞こえてくるようになりました。



『なんでもない』を聞くと
『そっとしておいて』もあると思うけれど
なんだか話しても無駄って拒絶されているように思えてくる。



『言いたいことがあるなら言ってくれればいいのに』

思わせぶりな感じで
なんでもないってことでもないだろうに。

ここにもまた家族に気を遣う父の姿がありました。



                    *



『だいじょうぶだ』
『すまんなぁ』
『なんでもない』

今までずっとぼくは

不安だったり怖いだろうに心配ないと突っぱねたり
誰にでも気を遣ったり
言いたいことを飲み込んでしまうのは

父の育ちや性格によるものだ
相手の強がりだと思っていましたが

今になって思うのです。



他界した今になって気付くのは大馬鹿者なんですが
そうさせてしまっていたのはぼくなのかもしれないと。



心配ないと突っぱねさせてしまったり
誰にでも気を遣わせてしまったり
言いたいことを飲み込ませてしまっていたのは

父の育ちの影響や性格もあったと思うけれど
そうぜざるを得なくさせてしまっていたのは

ぼくの態度なり
ぼくのこころなんだと。



相手は、鏡ですから。



なによりぼくが両親から虐待によって

『甘えるな』の自己責任
『頼るな』の自助努力
『正社員で家族を養って一人前』の男らしさ・自立

THE 昭和の価値観3点セットを叩き込まれ

『男らしくあらねば』
『強くあらねば』

そんな想いが骨の髄まで入り
相手をシャットアウトするように

『だいじょうぶ』
『なんでもない』

と口にしていましたから

気に掛けてくれる父のことを撥ねつけているように
映ってしまったのかもしれません。



相手に心配かけまいとするやさしさとは何処か違って。



家庭では両親の機嫌を損ねないか
虐待がエスカレートしないかと怯え

学校ではいじめられることに怯えていましたから
いつも両親や周囲の人の顔色ばかりを伺っていて

彼らがちょっとでも不機嫌になると
こちらにはまったく非がなくても

『ごめんなさい』

謝っていた姿を見せ続けたことが
父に『すまんなぁ』と言わせてしまったのかもしれません。



謙虚さや遠慮ではなく。



不安だったり怖い気持ちを聞いてあげたかった。
家族にだけは気を遣わないでいられるようにしてあげたかった。
すべては遺言なのだから、飲み込まずに言えるようにしてあげたかった。



もっと話したかった。



そんなことに、43歳になって気付きました。
世界が、違って見えました。


関連記事
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。