執着か 未練か - 白色の自己主張
~ 何色にも染まるたおやかさ 染まらない凛凛しさ ~

執着か 未練か

Photo:梅花瓣 By:heiyo
Photo:梅花瓣 By heiyo



白色の自己主張 ~ 何色にも染まるたおやかさ 染まらない凛凛しさ ~



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『走ってると、耳が風の音でいっぱいになって、空に溶けてるみたいになる』


風の音を聴く少女 橘(たちばな)あきらは
http://www.koiame-anime.com/character.html

風見沢高校陸上競技部の選手になっていた。



                    *



『小説は恋人』

早稲田大学文芸サークルで小説家を志し
書いて書いて追って追った青年 近藤正巳(こんどう まさみ)は

ファミリーレストラン『Cafe レストラン ガーデン』の店長になっていた。



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TVアニメ『恋は雨上がりのように』
http://www.koiame-anime.com/

第10話『白雨』
第11話『叢雨』

に、こんな場面があった。



                    *



幼少期からの変わらぬ俊足ぶりで
陸上部のエースと目されるまでになったあきら。

ある日の練習

右足首に違和感を覚えてテーピングをしていたが
大したことはないと自己判断。

大会が近いことからも
周囲の期待からも

練習に臨んだ。



だが

スタートしてしばらくすると
パン!という鋭い音とともに失速。

その場に倒れ込んだ。



右脚が動かない。
すぐに病院へと運ばれた。



アキレス腱の断裂だった。



医師からの説明に涙する母の隣で
表情ひとつ変えずに説明を聴くあきら。

車椅子生活を余儀なくされ
松葉杖で歩けるようになってからも

教室では誰とも交わらず
心は死んだようになっていた。



陸上部は退部。



リハビリを行う整骨院へと通い始めても
からっぽの心は晴れぬままだった。



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ある日の整骨院帰り

自身の心と似て
どんよりした曇り空の下を歩いていると

ぽつぽつと雨が降ってきた。



家へと帰る気持ちになれず
かといって何処かへ行きたいわけでもない。

行く宛もなく
傘もささず街を濡れ歩いていると

視線の先にファミリーレストラン
『Cafe レストラン ガーデン』があった。



雨が降ると傷が痛む。

それだけでも憂鬱なうえ居場所もなく
心の置き所もない。

そんな自分を持て余すかのようにお店へと入ったあきら。

なにか注文しなければと
ストロベリーパフェを頼んだ。



とりあえず頼んだもの。

味もせず
ただただ平らげ
雨が降りしきる様をぼぉっと眺めていると

湯気と香りがあきらにそっと寄り添ってきた。



テーブルに差し出されたホットコーヒー。




『あの・・アタシこれ、頼んでませんけど』


運んできてくれた店長と思しき制服を着た店員は
戸惑うあきらにこう言ってくれた。

近藤との出逢いだった。




『サービスです。ただ雨が止むのを待ってるだけじゃ、つまらないでしょう?』




それでも口をつけないあきらを見た近藤はブラックが苦手かと思い

即興の手品を披露して
手からコーヒーフレッシュをパッと出し置くと

あきらの顔にほんのり花が咲いた。




『きっと、すぐ止みますよ』




笑顔を添えて言い
立ち去る近藤の後ろ姿をあきらは見つめていた。



筆でまあるく円を描くようにフレッシュを注ぎ
コーヒーがキャラメル色に染まっていくと
テーブルに陽が差した。



『あの人の言ったとおりだ』



立ち去ったバックヤードの方へと顔を向けると
暖簾の合間からスタッフになにやら小言を言われ
ぺこぺこしている近藤の姿が見えた。



どこまでも良い人のようだ。



お店を出て空を見上げると
雨はすっかり上がり青空が広がっていた。



陽の光に街が包まれ
あきらもまた包まれていた。



                    *



陸上を失った心の雨はいつしか止んでいた。



                    *



心の雨に傘をくれた近藤。
あきらの胸にはときめきが宿っていた。



近藤の傍に居たい。
近藤のことをもっと知りたい。



お店の案内でアルバイトを募集していることを知ったあきらは
横浜からわざわざ通ってガーデンで働き始め

パートの久保が『バツイチ子持ち』『一生店長止まり』
いつでも何処でも誰にでもぺこぺこ頭を下げてばかりで
うだつが上がらない45歳の男と評するなかでも

アルバイトの西田から加齢臭で『臭い』
『話す時は口呼吸してる』と言われるなかでも

自分だけの魅力を密かに見つけては
近藤への恋心を募らせていった。



そうして募りに募った恋心を『好きです』とストレートにぶつけるが
人として好意を持ってくれていると勘違いされたり

募りに募った恋心を再度『好きです』とストレートにぶつけても

傍からどう見えるか(援助交際 or パパ活)であったり
若さ眩しいあきらに比べて夢も希望もないからっぽの中年だし

また従業員の関係との立場から近藤は
あきらの想いに正面切って応えることはできず

袖にするでもなく
大人の対応という落とし所

『友人』という形で応えることを選んでいた。



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『友人』を選んだのは、周りの眼だけが理由ではない。
若さと純粋さを持ち合わせない近藤。
自分が傷つきたくなかったのだ。



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何の気なしに口にしたデートや連れ子とのふれあい
自宅を訪れたりして近藤のことを知ってくなかで

本の虫であり
純文学が好きだと知ったあきらは

自宅にあった古紙回収に出す古新聞の束に
横浜赤レンガ倉庫で開かれる青空古本市のチラシを見つけると


『友人として、オススメの本を教えていただければ』


もっともっとお近づきになりたいと近藤を誘った。




『任せてよ』


晴天の下嬉々としてやって来て胸を張る近藤だったが
古本市に学生時代の馴染みの店主が出店していて
意気投合して学生時代へとタイムスリップすると

誘ってくれたあきらをほったらかしにしてお願いも忘れ
店主がここぞとばかりに持ってきた本に夢中になったり

(店主曰く眼鏡をかけて読みだしたら周りが見えなくなる)

店主が古道具屋から頼まれて置いているという古葉書を
あきらが見ている間にひとり何処かへと消えてしまい

店主ともども呆れさせる。



ただそんな近藤をあきらは怒るでもなく
むしろ微笑ましく思って待つことにした。



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『?』一文字だけのメールを送って。



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馴染みの店主が居る場所へとやって来た時近藤は
物珍しげに古葉書を手に取るあきらに店主とこんな話をしていた。



フランスの作家ヴィクトル・ユーゴーが
自身の本の売れ行きが気になり出版社へと
『?』とだけ書いた手紙を送った。

すると出版社からは売れ行き好調を意味する
『!』とだけ書かれた手紙が届いた。



いまいち意味がつかめずきょとんとするあきらに近藤は

これが『世界で一番短い手紙』と言われているもので
ユーゴーと出版社の間に確かな信頼関係があったから
『?』『!』だけでやりとりができたんだと言い

他の人にはどうってことない文面かもしれないが
あきらが手にしている古葉書の短い文面の中にも
本人たちにしか判らない想いが詰まっているんじゃないかなぁ

ロマンチストに話していたことを憶えていたあきらは
近藤に『?』とだけ書いたメールを送ったのだった。



                    *



代る代る古葉書を手に待つあきらのスマートフォンに
メールが届いたことを知らせるベルが鳴った。



『!』の文字。
『通じた』あきらの胸は躍っていた。



                    *



すっ飛んで帰ってきた近藤は
ほったらかしにして自分だけ楽しんでしまったことを平謝り。


『そういうことって、誰でもあると思うので』


鷹揚なあきらに近藤は
店主が持ってきた本の中からどうしても欲しい本があり
値切って買うための条件に出されたセットの古葉書一枚を

お詫び代わりにあきらにプレゼントすることにした。


『さっきから気になっていて』


手にした古葉書には
こんな言葉が綴られていた。



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お手紙拝見。
忘れることのできないものは
無理に忘れることはないと思います。

季節が巡ったら、
またお会い致しませう。




                    *



数日後の Cafe レストラン ガーデン
オフィスで休憩に入ったあきらが
デスクでパソコンに向かう近藤に声を掛けた。



あの時の古本市で近藤を待つ間にタイトルが気になって手にした
夏目漱石(なつめそうせき)の小説『それから』。

文庫の中に使い込まれた栞が入っていて
お店に返した方がいいのかと問うあきらに

近藤はこれも本の一部であり
これもまた古本の魅力だからこのままにしていいと

あきらに文庫を渡そうとした時だった。




『大発見!』


思わず声をあげると
栞を陽に透かした。

クローバーが添えられた栞に
燕のシルエットが浮かんでいた。



透かしとして最初から入っていたというよりも
箔が剥がれてこんな姿が浮かびあがったのだと思うと

あきらの心はプレゼントしてもらった古葉書の文面と併せて
巡り逢いになにかを感じずにはいられなかった。



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近藤:燕と言えば、そこのドアの所に燕の巣があったんだけど
あきら:え?そうなんですか?

近藤:久保さんが壊しちゃったんだぁ・・
あきら:えっ!!

近藤:

糞が酷くてねぇ。
飲食店だから仕方ないけどね。
悲しかったなぁ。

(慌てて窓を開け巣を確かめようとするあきら)

近藤:

あぁ、いやいや。
雛が皆巣立った後ね。

(あきらの視線の先には既に壊された巣の跡)

近藤:

一羽だけ、なかなか飛び立たなくてねぇ。
ひやひやしたもんだけど、無事みんな巣立っていったよ。


(栞を手に風に吹かれ空を見上げるあきら)

あきら:もしも
近藤:ん?

あきら:仲間と一緒に飛び立てなかったら、その燕はどうなってしまうんでしょうか?

(近藤の眼に、あきらの怪我をした右脚が映った。燕の巣は陸上部、飛び立てなかった最後の一羽はあきらなのだろうと思った。『飛び立たなかった』のか、『飛び立てなかった』のか。言葉を選びながら、恋い焦がれていたものを失った、報われない挫折を知るからこその自分だけの言葉を紡いだ)


(近藤は小説家になりたいと学生時代から小説を書いて書いて書きまくってきた。だが芽が出ない。同じサークルで仲の良かった同級生 九条ちひろが学生時代に書き上げた作品で文壇デビューし、才能というものを嫌というほど見せつけられた。それでも諦めきれずに追いかけて、追いかけて、周りの人間も傷つけて、離婚しても、今もまだ諦めきれずに人知れず書いている。あきらと出逢ったことで沸沸としたなにかが自身の中で芽生えたこともおおきいが、『俺の文学への想いは誰も救うことができないのか』そんな鬱屈した想いにも独り苦しめられていた)


近藤:

飛び立てなくても、其の地に留まって得る幸せもあるかもしれないねぇ。仲間たちのことも忘れて。でも、その燕の飛び立たなかった理由がただの諦めであったとしたら、きっと毎日空を見上げることになる。ずっと・・永遠に。

なんてな・・ははははは。
いや、ごめん。
喋りすぎたね。

(持ったままの文庫と栞をあきらに返して)
ああ、これ、ありがとう。

もう、古本市の時といい、最悪だな俺は。

(デスクへと戻り、椅子に腰掛ける近藤。受け取った栞と文庫を手にしたあきらの胸には、出逢った時のこと、出逢ってから近藤が贈ってくれた言葉が綺羅星の如く湧きあがっていた。そして、古本市で近藤を待つ間店主から近藤が小説家を目指し、自分でも書いているはずだと聞いたこと。以前連れ子を送り届けるために近藤の自宅を訪れた折、障子の隙間から偶然目にした書斎。机の上の書きかけの小説と思われる原稿用紙を思い出していた)


(あきらの持ってきたドリンクの氷がカタリと音を立てた)

あきら:店長。
近藤:ん?

あきら:アタシは、店長の言葉が聞けてうれしいです。
近藤:え?お、俺の?

あきら:店長の言葉をもっと聞きたいですし、いつか店長の言葉を読んでみたいです。
近藤:お、俺の言葉を?

(デスクに置かれた黒い手帖を見て)
(いつも店長のことを見ていたから)

あきら:店長がメモを取るのは、いつか書く小説のためですよね。

(立っていた窓際から一歩歩み寄って)

近藤:こ、こんな俺の?
あきら:そんな店長だからです。


あきら:

それから、本当に飛ぶことを諦めた燕は、きっと空を見上げることも忘れてしまうでしょうから。

(空を見上げるあきら)
(そっと手帖に手を乗せた近藤は心の中で呟いた)

近藤:

燕は知っている。
雨の当たらぬ場所は、陽も当たらぬ場所だと。


(自分で持ってきた飲みかけのドリンクの入ったグラスと近藤が飲み干したコーヒーカップをお盆で片付けながら、あきらはこう言って仕事へと戻っていった)

あきら:アタシ、店長の書く小説、きっと好きです。

(一礼してオフィスを出るあきら。姿が見えなくなると、45歳、男、店長、小説への未練、才能無き自分、同級生への嫉妬、傷つけてしまった人たちのこと、強がっていた心の紐が緩んだ。まさかこんな形で言ってもらえる機会が訪れるなんてという苦笑いと綯い交ぜになって)


近藤:

ふっ・・
はは・・

『許されたい』、なんてそんな大袈裟なことじゃない。
けれどずっと、誰かに言って欲しかった。
『それでもいい』と。


ありがとう。




                    *



近藤は、空を見上げていた。



                    *



図書館で大学時代の学友 九条ちひろが書いた小説
『波の窓辺』を偶然手にした近藤は

自身の中にくすぶる小説への想いが揺さぶられ
なにかあったわけではないが距離を置いていたちひろに連絡を取り

10年振りに再会していた。



あの頃と変わらない小説への想いを持ち続けているのか

学生時代の馴染みの店
『どんでん』でちひろから問われたものの

最後まで書き切ったものはここ四五年(しごねん)なく
周りで自分が小説をこそこそ書いていることを知っている人も居ない。

ささやかなものだと力なく呟いた。



才能がないにもかかわらずそれでも小説を諦めきれない自分と
眩しいほどの才能を放つちひろを前にして

申し訳なさのような
惨めなような

綯い交ぜになった想いが近藤を包んでいた。



それからしばらくして
ちひろが近藤の住むアパートを訪ねてきた。

『サイフォン式珈琲が落ちるまでに短編を書けなければお仕置き』

文芸サークル時代の恒例行事
『一分小説』を再現しようとサイフォンを持ち込んで。



だが近藤は

ちひろから原稿用紙を出すよう促されても
どんでんの時の想いが蘇ったのか

そんなものはないとにべもない。



だったら勝手に探しちゃおうとちひろが襖を開けると

時間が止まったままのような
あの頃のまんまの書斎が広がった。

純文学の本という本が所狭しと並べられ

学生時代から書き続けてきた作品が
年代ごとにダンボールへとしまわれていた。



机の上にはまっさらな原稿用紙。
ちひろの顔に笑みが宿った。



『やっぱりな』という想い。
『こうでなくちゃ』という想いの笑みだった。



そうして半ば強引に臨むことになった一分小説。

ちひろの持つペンが
才能の泉が溢れるようにさらさらと音を立てるのに対し

近藤のペンは一行書いたところで音を止めた。



ちひろの短編を朗読する近藤。
近藤の一行はペンで消されていた。



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(しばしの沈黙)
(ちひろが原稿をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱へシュート)

ちひろと近藤:ははははは。

近藤:いやぁ、参った。
ちひろ:俺も駄目。大失敗。

近藤:ここでやるとは思わなかったぜぇ、一分小説。

ちひろ:

学生時代を思い出すだろ?
珈琲落ちるまでに短編書けなきゃお仕置き!

近藤:

思えばとんでもない儀式だぞ。
そもそも、サイフォンの珈琲って一分で落ちるのか?

ちひろ:さぁなぁ・・まぁ、目安だろ、目安。

近藤:

いやぁ、にしても書けねぇなぁ。
あの頃は勢いっていうか、勝手に言葉が溢れ出てきた。

ちひろ:なんの約束もないのに、毎日わくわくしてた!
近藤:その先になにがあるわけでもないのに、眼の前の坂を全力で駆け上がっていた。

ちひろ:(ペンを手に熱弁を振るうように)

待ってろ芥川!
俺は文学の潮流を変える激流の岩だ!

近藤:いやぁ、なんでそんなこと言えたかな。

(近藤の書いた一行)
(ペンでくちゃくちゃに消された様が映る)

俗に言う若気の至りか。
いやはや・・今はもうな~んにも書けない。
その点おまえはすげぇよ。

(畳の上に置かれた新聞を手に取る)
(そこにはちひろの小説『波の窓辺』映画化の広告)

今や超売れっ子作家。
自分の書いた小説が映画化だぜ。

ちひろ:あんな小説、大衆に媚びたクソだ。
近藤:けど、おまえの小説は沢山の人を救っている。

(その言葉に想いが溢れてテーブルをバン!と叩きながら)
(想いをぶつける度に顔をぐいぐい近づけていく)

ちひろ:

文学ってのは、人を救うためのもんじゃねぇんだよ!
文学ってのは、毒であるべきものなんだ!
そうだろ!近藤!

近藤:おまえ、まさかそれを言いたいがためにきょうここに来たのか?
ちひろ:悪いか?

ちひろ:あと、おまえの顔を見たくて来た。

近藤:

ぐふっ・・(飲んでいた珈琲を吐き出しそうになる)
気持ち悪!

(気まずさをなんとかしようと湯呑みに入れた珈琲をすする近藤)
(だが二の句で表情が変わった)

ちひろ:走り出す前の俺を知ってるおまえに逢いたくなったんだ。

(映画化されるという作家冥利に尽きる光栄を映し出す新聞広告)
(回想:出版記念パーティーでの華やかさの裏にある想い)

一度走り出したら止まらねぇ。躓くことさえ許されず、突っ走る!ゴールが何処なんて判りゃしねぇ。周りの期待に押し潰されそうになりながら、結局クソを産み出し続けている。そんな自分を戒めたくて、おまえに逢いに来た。見失ってしまいそうな自分を確かめるためにな。

近藤:ちひろ・・

(背を向けながら吐露していたちひろだがおどけてみせた)

ちひろ:な~んちゃって。

(おもむろに立ち上がりベランダの扉を開けて)

ちひろ:おまえさっき、『前にみたいには書けない』って言ったよな?
近藤:あぁ?うん・・あぁ・・

ちひろ:

本当は『書けない』んじゃなくて、『書かない』んだろ。
昔とおんなじ気持ちでなきゃ、書いちゃいけねぇと思ってんだ。
そうじゃねぇと、過去の自分に失望されちまう。

・・おまえを邪魔してんのは、おまえだよ。

近藤:

もうこの歳だ。あの頃に戻れるはずもないし、青臭い感情だけではどうにもならないことが沢山あった。

(小説を追いかけるあまり傷つけ別れた妻と息子の写真が眼に浮かぶ)

でも、書くことだけは夢や憧れに正直でありたい。
たった一行でいい。
猛毒を落としたい。
たったひとり、そのひとりの心を毒で冒したい。

・・なんちゃって。

(ちひろが本音を吐露しながらもおどけたように近藤もおどけてみせた)
(ライターで煙草に火を点けふぅっと紫煙を吐くちひろ)

ちひろ:実際、近藤ってさ、正直な人生だよな。
近藤:そうかな・・

ちひろ:

そうだよ。
あの頃のまま、夢一個で生きてる。
あの部屋だって、未練じゃなくて執着なんだ。

(押し黙って聞いていたがやっぱり同士なんだという想いが顔を明るくする)

近藤:

じゃあちひろ、おまえもおんなじだ。
夢一個握りしめて、より高い文学の頂に挑んでる。
あの頃のままに。

(近藤もベランダへ)
(ちひろから火を貰い紫煙を吐く)

(ベランダの景色が何処を見ても壁・壁・壁ばかりなのを皮肉って)

ちひろ:しっかし眺めの悪い所だなぁ。
近藤:先が見えねぇからわくわくすんだよ。




                    *



ちひろが帰った夜
ちひろが執着だと言った書斎で
原稿用紙に向かう近藤。




執着か・・
だとしたら、この想いを持ち続けていれば、いつか辿り着けるんだろうか・・




一分小説では止まってしまった万年筆が
夜の静寂(しじま)に響いていた。



                    *



近藤にとっての『小説』とは未練なのでしょうか?
執着なのでしょうか?



                    *



あきらのこころも揺れていた。



陸上部を退部し
ガーデンでアルバイトを始めたのは

心の雨に傘をくれた近藤とお近づきになりたいとの想いからだったが

高校に居ればどうしても陸上のことを考えてしまうし
否が応でも見てしまう。

家に居れば
陸上部時代の物がまだ捨てられずに置いてある。



陸上から距離を置き
ひとりの女子高校生として過ごせる場所が欲しかった。



ある日のこと
お客様がスマートフォンを忘れてお店を出て行った。

近藤に報告し
ふたりで店外へと出ると

自転車に乗って離れていく後ろ姿が見えた。



近藤は遠ざかる様子に諦め

そのうち取りに来るだろうと
店で保管しようとしたがあきらは

『この先の信号に引っ掛かれば渡せる』

スマートフォンを手に駆け出した。



ぐんぐん加速し
びゅんびゅん走り抜け
思った通り信号に引っ掛かったお客様に手渡すことができた。



好意を寄せる近藤の役に立ちたいという想いだった。
走りたいという抑えられない衝動だった。



だがあの頃と同じように走ったために足を痛めてしまった。
再発の恐怖があきらを覆っていた。



デジャブのように

お客様が店内に忘れたスマートフォンを
ちいさな女の子があきらに手渡した時

店外に出て後ろ姿を見つけても
走り出すことはできなかった。



走ることへの逡巡。
想いとは裏腹に萎む情熱。



空は、鈍色だった。



                    *



幼少期より共に走ることを楽しんできた
同じ陸上部の喜屋武(きゃん)はるかとの関係。

互いになんとかしたいと思いながらも
もどかしいほどすれ違ってばかりいたある日

このままあきらが完全に陸上から離れてしまうのはあまりにも悲しいと
はるかがガーデンをお客として訪ねてきた。



嬉しくもあり複雑な想いだった。



ガーデンは、今までの自分を知る人が誰も居ない場所。

風見沢高校でどんな高校生活を送っているかも
陸上部でのことも話さなくていいし

あれこれ詮索されない場所だった。



あきらに好意を寄せるクラスメイト
吉澤(よしざわ)タカシがアルバイトで入店したのは想定外だったが

吉澤のことは空気のようにしか思っていないくらい
あきらの中では存在感が薄かったために

ここはある意味聖域でもあった。



そこへはるかが現れた。



南高校陸上部の倉田(くらた)みずきが

あきらと同じアキレス腱断裂の大怪我から
手術・リハビリを経て復帰。

100M で自己新記録をマークしたとの話題で
風見沢高校陸上競技部が湧いていたからだった。



互いのすれ違いをなんとかしたいとの想いに駆られたはるかは

倉田にできて
あきらにできないわけがないと

自分の方からガラスの壁を越えていった。



倉田のこと
今まで言えなかった陸上に戻ってほしいという想い
仲間が待っていることを告げた。



その姿を本社へ行こうとして
忘れ物を取りに戻った近藤が見つめていた。



                    *



はるかの想いに心揺れるあきら。

ちひろの言葉に心揺れた近藤が原稿用紙に向かっていた同じ月夜の下で
クローゼットにしまったままだったシューズを取り出し

じっと見つめる姿があった。



                    *



数日前近藤は
あきらからアルバイトのシフト希望を受け取っていた。

月曜日
火曜日
金曜日
土曜日に加え

日曜日もだいじょうぶとあった。



ガーデンでは恋以外にクールなあきらから
陸上のことは殆ど聞いていない。

それでも自分と同じ匂いがしたし
先日眼にした陸上部の仲間とのやりとりを見ていて

本当は陸上部に戻りたいのではないかと思った。



燕を巡る物語であきらから背中を押してもらえた近藤は
今度は自分が遠回しにでも背中を押してあげられないか
仕事を終えたあきらに言葉を選びながら話し掛けた。



                    *




(更衣室から出てきたあきらに)

近藤:

あぁ、橘さん。
こないだ貰ったシフト希望のことなんだけどさ。
ほんとに、こんなに入れていいの?
中間テストとかあるんじゃないの?

あきら:

だいじょうぶです。
入れます。

近藤:

あぁ・・そっか・・
バイトよりもやりたいことがあったら、そっちに時間取ってもいいよ。

(ロッカーの中を整理していた手が止まる)
(空気がぴりっとしたためゆるめようとする近藤)

あっはは、いや、うちは人手不足だけど、なんとかなるっちゃなるし。
学校とかその・・いろいろあるでしょ?
へへへへ。

(暗に陸上へと水を向けたかった近藤だが、ゆるめようとした態度と共にささくれた心を逆撫でてしまった。あきらは気持ちに蓋をするかのように、見たくないかのように、勢いよくロッカーの扉を閉めた)

あきら:他にやりたいことなんてありません!




                    *



近藤に眼を合わせないことも
苛立ちの感情をぶつけることも初めてだった。



                    *



ちひろが近藤に言った言葉が
あきらにも重なって見えました。




本当は『書けない』んじゃなくて、『書かない』んだろ。
昔とおんなじ気持ちでなきゃ、書いちゃいけねぇと思ってんだ。
そうじゃねぇと、過去の自分に失望されちまう。

・・おまえを邪魔してんのは、おまえだよ。




あきらにとっての『陸上』とは未練なのでしょうか?
執着なのでしょうか?



                    *



執着と未練。

今まで同じように思っていましたけれど
職業作家のちひろが使い分けているのを耳にして初めて

違うんだなと思いました。



辞書を引いてみます。




執着:

【デジタル大辞泉】

一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。

【大辞林 第三版】

ある物事に強く心がひかれること。
心がとらわれて、思いきれないこと。





未練:

【デジタル大辞泉】

執心が残って思い切れないこと。
あきらめきれないこと。
また、そのさま。

【大辞林 第三版】

あきらめ切れないこと。
思い切りの悪いこと。
また、そのさま。




なんでしょう。
違いがよく判りませんでした。
アタマが悪いからでしょうか。



ただイメージですと

未練は、現在から過去を見ている。
未練は、心に居座るものを捨てている。

執着は、二人三脚で過去から現在まで歩いてきている。
執着は、心に居座るものを捨てられないでいる。

こんな感じでしょうか。



近藤も(=原稿など)
あきらも(=シューズなど)

心に居座るものを捨てられないでいますから
共に『執着』なのかもしれません。



輝きを持って今居る場所から踏み出せるのは

執着か
未練か

第12話『つゆのあとさき』で
http://news.noitamina.tv/after-the-rain/article/20180323_12th.html

ふたりのこれからを見届けたいなと思います。




Photo:桜の香り By:lincet
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