白色の自己主張

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愛された記憶

白色の自己主張
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Photo:Hug By:jk+too
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You are the reason why I write. あなたがいる、それがわたしの書く理由。
Donna Jo Napori (ドナ・ジョー・ナポリ)http://www.donnajonapoli.com/about.html



     白色の自己主張 ~ 何色にも染まるたおやかさ 染まらない凛凛しさ ~



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愛されるって、努力でどうにもならない。
奇跡に近い類いのものだと思うわ。

自分がどうしようもなく悪意ある人間に思えて、惨めで情けなくても。
それでも意地悪な気持ちが止まらない時、ふと愛された記憶が蘇るんだと思うの。

とても大切にされた記憶。
自分をすごく価値のある人間に思えた時の記憶。

そんな記憶に助けられて、人は真っ白な気持ちにまた戻れるんだと思うの。

遠野藤香(とおの ふじか)http://tokai-tv.com/shiroihane/chart/
オトナの土ドラ『いつまでも白い羽根』第6話『愛された記憶 ありますか?』



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母の日に。



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ぼくは、子どもの頃の度を越した両親の厳しい躾に恨みを持っていて、ずっと確執があり、関係は最悪だった。両親には理想の子ども像があり、そこから1ミリでも外れることを決して許さなかった。逆らったり、1ミリでも外れれば、厳しい躾と称した容赦ない虐待が待っていた。365日皆勤賞の。

『どれだけ過酷な環境であっても、心の有り様、生きかたは選べる』

ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』を愛読する人は言うけれど、親を選べない、親の庇護を受けられなければ生きていけない子どもにとって、度を越した厳しい躾が愛情などではなく、今のように児童虐待と認識されない時代に於いては、ただただ生きるために親に従うしかない。若しくは、親を殺してでも逃げるしかなかった。

刃を親に向けることが出来なかったぼくは

『甘えるな』の自己責任
『頼るな』の自助努力
『正社員で家族を養って一人前』の男らしさ・自立

そんな生きた化石のような価値観なんて幼子には理解できないのに、心身に痛みを伴いながら徹底的に叩きこまれ、まるでマシーンのようにその理想を体現すべく、日々心を潰して邁進した。止まることなんて許されなかった。



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中学2年の秋。母が末期がんで余命三ヶ月と告げられた時は、悪魔のような気持ちだけれど『ざまぁみろ』と思った。度を越した厳しい躾の罰だと。

小学校高学年の時、見た目をきっかけに始まったいじめに遭い、『甘えるな』の自己責任、『頼るな』の自助努力、『正社員で家族を養って一人前』の男らしさ・自立。3箇条に縛られて誰にも助けを求められなかった。内面はいつも『死にたい』『でも本当は生きていたい』の間で揺れ動きながらも『男だから』がブレーキとなり、『助けて』のひとことが途轍もなく重かった。

追い詰められ、中学に入っても続いた、むしろ小学校の時よりエスカレートしたいじめの苦痛から逃れるために、中学2年の秋、母が末期がんで余命三ヶ月と告げられる前、学校の校舎から飛び降りて命を絶った。

『いじめの苦痛から永遠に逃れるために』
それは美しい建前。

ドス黒い本音は、『甘えるな』の自己責任、『頼るな』の自助努力、『正社員で家族を養って一人前』の男らしさ・自立。そんな価値観を問答無用に徹底的に叩きこまれ、抗うことも、そこから1ミリでも外れることも決して許さず、ぼくの気持ちにも言い分にもまったく耳を傾けてくれなかった両親への命を賭す抗議、復讐だった。『無残な失敗作をその眼でよく見ろ』あんたたちの育て方がこんな子どもにし、こんな結果を招いたのだと。



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自殺は、未遂に終わった。



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好運に幸運が重なり一命を取り留めたが、学校の対応も、両親の反応も、世間体を気にして冷ややかなものだった。ぼくの存在なんてそんなものかと。

ただ、心は揺れていた。

自ら命を絶ったことで、今まで決して越えられないと思っていた死へのハードルを越えてしまったことで、悪い意味でいつでも死ねると学習してしまったし、ハードルが一気に下がってしまった。越えようと思えば、ひょいっと越えられるほどに。

でも、そうやって常に死が隣り合わせにあるからこそ、死への誘惑に駆られるからこそ、反作用で『いのち』というものに、『生きる』ということに正面からとことん向き合うこととなり、母の命のことも頭から離れなくなった。



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今はどうか判らないけれど、当時大部屋に入院していた患者さんが余命僅かだと判ると、急変に備えるために、大部屋の人たちに動揺を与えないために個室へと移されていた。母にもその時期がやってきて、荷物を移動することになった。ベッド脇の縦長の台には引き出しが付いていて、そこを開けた時、中に母子手帳が入っていた。

見た時、なんとも言えない感情が湧いた。

この時は中を見ることはしなかったけれど、母が旅立った後個室の荷物を整理している時、引き出しに入っていた母子手帳を何気なく開いてみた。表紙を開いたところに、古びた二枚の写真が大切に挟んであった。

ぼくは、写真に撮られることを極端に拒んでいた。きっと理想の子ども像に近づけず、365日皆勤賞で両親に否定され続けてきたことで、自分という失敗作の存在を記録にも、記憶にも残すことを頑なに認めていなかったからだろう。だから、自殺する時にそれでも撮られた写真はすべて身辺整理のために焼き捨てていた。

この世に存在した証なんていらないと。

そんな烈日なる想いを抱いていたから、母が写真を大切に持っていてくれたことに、それもぼくが産まれた証である母子手帳に大切に挟んで持っていてくれたことに、溢れるものを抑えきれなかった。



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一枚は、小学生の時姉と共に連れて行ってもらった名古屋の東山動植物園だろう。見覚えがある。ベンチに腰掛けている姿だが、口を真一文字に結んでカメラを見つめる瞳が怯えている。

もう一枚は、幼稚園の運動会で撮られたもの。ぼくは集団生活に馴染めず、積極的に人の輪に入っていくことが出来なくて、いつも独りぽつんとしていた。なにをするにももたついていた記憶が今も心に残っている。

『いりぐち』と書かれたゲートが奥に写っていて、赤い帽子をかぶった園児たちが集まっているが、そこから10メートルくらい離れたところになぜかぼくだけが立っている。その傍らでこれまたなぜか母がひざまずいて寄り添い、なにか語りかけてくれている。

(写真を撮ったのは父だろうか)

この写真を見た時、『ひとりにはしないから』そんな声が聞こえた気がして、母に抱いていた復讐心は雪解けしていった。

『ぼくは愛されていたんだなぁ』って。
ほんの一瞬だったかもしれないけれど。

あまりに辛い記憶がしんしんと降り積もる雪のように、母の愛情を一心に受ける記憶を覆い隠してしまったから見えなくなってしまっていたんだろう。



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母亡き後に気づいたことだから、本当はどうだったのか判らない。

嘘ではないけれど、事実でもない。
でもきっとぼくはそう思っていたかったのだろう。

愛されていた。
たとえそれが一瞬だったとしても。
こうあってほしいという願望が作り出した記憶だったとしても。

そう信じたかったのだと思う。


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