~ 何色にも染まるたおやかさ 染まらない凛凛しさ ~

『ひょうげんする』ってなぁに? おしえて、なおたろうくん





You are the reason why I write. あなたがいる、それがわたしの書く理由。
Donna Jo Napori (ドナ・ジョー・ナポリ)http://www.donnajonapoli.com/about.html



     白色の自己主張 ~ 何色にも染まるたおやかさ 染まらない凛凛しさ ~



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誰もが100%納得するものを創ろうと意識すると、凡庸で、つまらないものができる。
ロックバンド『ウィルコ』フロントマン ジェフ・トゥイーディ







「詩を書いたり絵を描いたりする仕事って儲かるの?」

センセイはきゅうに真面目な顔になって「売ろうと思って描いたりするのではなく、描かずにはいられないものを表現することが一番大切なんだよ。詩でも絵でも音楽でも・・・・・・」センセイは真面目な顔で言った。

『夜の校長センセイ』鶴田陽子 著(ぱる出版)







こうして改めて書いてみるとものすごい言葉であるが、私は何が嫌いといってこの「お涙ちょうだい」ほど嫌いなものはない。憎んですらいる。もともと、この言葉自体「軽蔑」の意味を含んだものである。ものを創る時に人の感傷に訴えて涙をさそい、その”涙”という証拠を人質に、とりあえず収めてしまおうという手法が低次であるという観客(受け手)側からの批判と、そして創り手側の自粛自戒を表している言葉だと思う。

お涙ちょうだいは、いつも想像力の貧困の逃げ場である。プライドを捨てて、またはハナからそれを堕落だと認識さえしていない程鈍感な、お涙ちょうだいへ身を堕した人や作品を、観客はその一点で否定する権利を持っていると思う。

『何をいまさら』ナンシー関 著(角川文庫)
「お涙ちょうだい」番組花ざかりにもの申す






『つまんね~』

NHK連続テレビ小説『半分、青い。』第14週『羽ばたきたい!』第83回。口さがないのだけれど、演者さんや制作に携わっている方々には申し訳ないのだけれど、最初の5分くらいでつぶやいてしまった。前日の第82回と併せて一話にしてもいいくらいだった。第14週の尺が足らないために急遽設けられたような感じがして、箸休めにさえならない有様だ。中だるみでしかない。

これが脚本家の言う『神週』なのか?

公式サイトで謳う『あぶなっかしくもバイタリティーあふれるヒロインの冒険が、2018年の朝を明るくします。』は何処へ行ったんだろうなと思う。左耳中途失聴の設定も。


第81回漫画家編のラスト。

もう漫画を描けなくなったヒロイン楡野鈴愛(にれの すずめ https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/cast/index.html)が、師匠の秋風羽織に『漫画を、もう止めたらいいと思います』と言わせてしまった。そう仕向けた。誰だって精一杯生きている。だからこそ思う。なんだこれ。誰かに背中を押して欲しい時は有るけれど、鈴愛の人間性の総決算のように映った。

28歳。
なにも成長していなかった。

誰かに『やったらいい』と言われて始める。
行き当たりばったりで行き詰まれば、誰かに引導を渡してもらう。

自分の思うように生きられないのは周囲の人や環境(=失聴含む)のせい。
決めてもらったから、引導を渡されたから、自分は悪くない。

就きたい仕事に就けず、仕方なく生活のために就く仕事は不本意。
応援、支えてくれる人たちへの暴言も、非礼も、詫びることは殆どない。

甘やかされて、成長の機会を奪われ、どんどんバカになっている気がしてならない。
どうした、鈴愛。

『最終回だった』と評している人が居たけれど、同感。ここへ至るまで随所にあった差別意識、偏見、一方的な思い込みも目に余るものがあり、脚本の敗北だと思う。良くも悪くも脚本以上にはならないのだから。創作物、職業、この世に生きる何人にも、敬意を払わない人には払われないと肝に銘じるべきだろう。


鈴愛。
本物の表現者とは、こういう人をいうのだと思う。

「先生の部屋」の書棚 | 川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム
http://fujiko-museum.com/blog/?p=18916/

天井まで本がびっしり!司馬遼太郎記念館の本棚が凄い! | ミネルヴァのトリビア
http://athena-minerva.net/seikatu/3040/


『嫌なら観なければいい』

一見まともな言い分に聴こえるけれど、暴論だと思う。誹謗中傷の類が掲載されているものは命(=時間)の浪費であり、脳味噌の無駄遣いだから、嫌な気分になりたくなければ見なければいいが、作品であるドラマは違う。

観る観ないは、それぞれが決めること。
他人に言われることはあっても、決めるものではない。

悪口と批判は似て非なるものだ。
考えさせられる。
未来に向けてなにかが産まれる予感がするかどうかだ。

いかなる批評もアンチとして受け付けないというのであれば、世に出さなければいいだけのこと。肯定的な意見だけで自分の周りを固めるなら先は無い。これだけ多様な人が彩りを添える世界で絶賛だらけになることなどありえないし、気持ち悪いことだ。異様な光景を疑う健全な感覚が麻痺しているし、むしろサクラや仕込みではないかと、胡散臭く思われるだろう。毀誉褒貶あるのは当然で、それは観てもらえたからこそ出てくるもの。だからこそ思う。

脚本家は、空想の世界に生きているのではないか。

一時代を築いたと言ってもそれは過去の話。
時流に乗り遅れた、過去の栄光を食べて生きている前時代的な脚本家だと思えてならない。

かつて秋風羽織は、弟子の鈴愛にマンツーマンで創作の秘訣を惜しみなく伝えていた。これが脚本家のアタマから本当に出てきたのだとしたら、今一番足りないことだろう。なぜリアルに欠けるのか。なぜ共感できないのか。その答えだから。



秋風:正人(まさと)君(※鈴愛 意中の人)から、電話はまだないのか?

鈴愛:

はい。ぼぉっとしてしまってすいません。
ちゃんと仕事に集中しますので。

秋風:鈴愛。恋をしろ。
鈴愛:コイ? 泳ぐやつ!

秋風:ボケなくていい。真剣な話をしている。
鈴愛:すいません。

秋風:私がなぜおまえを弟子にしたか、わかるか?
鈴愛:五平餅?(=生家の食堂で出されている名物で秋風の大好物)

秋風:

違う。いや、違わない。それもあった。楡野は、他のふたりとは違う。山を駆け回っていた。そのリアルが重要だ。小宮(=ユーコ)やボクテとは違うんだ。あいつらの漫画の知識は深い。なぜだ?漫画ばかり描いたり、読んだりしていたからだ。それではダメなんだ。

鈴愛:えっ・・ダメなんですか?

秋風:

あぁ。俺が『恋をしろ』と言うのはそういうことだ。リアルを拾うんだ。想像は負ける。好きなやつが居たら、ガンガン逢いに行け。仕事なんかいつでも出来る。ベタなんかいつでも塗れる。空想の世界で生きている奴は弱いんだ。心を動かされることから逃げるな。そこには、真実がある。

楡野、いいか。半端に生きるな。創作物は人が試される。その人がどれだけ痛みと向き合ったか。憎しみと向き合ったか。喜びを喜びとして受け止めたか。逃げるな。



朝ドラ『半分、青い。』脚本家・北川悦吏子の“革命的な表現手法”“トレンディ霊力”をホメゴロス
http://www.cyzowoman.com/2018/06/post_186024_1.html

『神』なんて随分な持ち上げようだけれど、脚本家がドラマ本放送中に自分から『神回』だと予告したり、あれこれ補足しなければならないなんて、表現者として恥ずべきことだろう。力を尽くしていないということなのだから。自身で作品を安っぽくしてしまっているのだから。これも革命的手法と呼ぶのだろうか(褒めていない、皮肉です)。

視聴率や放送後の視聴者のツイートを気にすることも含めて、自分が心血注いで書いた脚本に自信がないのではないか。だから、気になってしょうがない。自信を持って送り出したなら、見る必要など無いのだから。ラストまで駆け抜ければいい。神回予告は論外としても、どうしても補足したいのなら、ツイッターではなく公式サイトで述べればいい。


感動は、意図的につくられるものではない。
涙が流れるのは、目薬をさしたからではない。
そんなことなど知らず、せずに観ていて、ふと抑えようなく溢れ出るものだ。

視聴者が決める『神回』を、表現者自ら言う。台詞の向こうに、脚本家のドヤ顔が透けて見える。SNSに振り回されて、脚本の内容や方向性が変わる。表現に携わる人自らが『泣ける』『感動』などとPRしたり、安易な涙や感動の演出に頼るようになったら。

創作物、職業、この世に生きる何人にも、敬意を払わなくなったら。なにより表現する楽しみ、喜びを、情熱を、『わたしを見てわたし』の賞賛中毒や自己顕示欲、安易な感動や涙と引き換えに差し出してしまったら、表現者を引退する時だと思っている。職業、プロ・アマ問わず。